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act.6影踏スクランブル<93>
「藤沢の嫡男が帰国したって聞いてね、追っかけてたんですよ。ほら、昔の事件のことずっと調べてて。お兄さんはまだ子供だったかな?知ってます?」
背筋に嫌な汗が伝う。彼は十中八九知っている。冬耶が藤沢家の隣に住む人間であることを。千景ではなく、冬耶がターゲットだったのだ。
「ひどい事件でしたよね。藤沢家の若奥さん、綺麗な女優さんだったから私も憧れてたんだけど、まさかあんな死に方するとは。残念でしたよ、本当」
冬耶が何も喋らないのを良いことに記者はペラペラと当時の記憶を蘇らそうとしてくる。彼の言う人物は葵の母親の話だ。彼女がどんな死を遂げたのか忘れるわけがない。
「子供の前で首吊るってねぇ、ひどい話だ。その前にもあの家、赤ん坊が死んだばかりだったでしょ?やっぱりそのショックでの自殺、なんですかね?」
強引にでもエンジンを掛けようと差し込みかけたキーは男が妨げたせいで叶わない。
まだあの時の話を蒸し返す輩が居るとは思わなかった。葵を引き取ってしばらくは幼い葵本人にさえ、目の前で母親を亡くしたことを聞き出そうとするハイエナのような記者達が後を絶たなかった。陽平が藤沢家の当主に訴え一掃させたはずだが、彼はその残党なのだろう。馨が帰国したことをきっかけに再び真相を探ろうと動き始めたようだ。
「あぁ、そういえばあの時の子は今どうしてるんだろうな。まだあの辺りに住んでるんですかね?会ってお話、聞いてみたいなぁ。お母さん、最期にどんなこと言ってたのか、すぐに亡くなったのか、それともしばらくは……」
それ以上おぞましい言葉を聞くことは出来ず、冬耶は男を突き飛ばしてドアを閉めると、力いっぱいアクセルを踏み込んだ。バックミラー越しに男がこちらに手を振っているのが見える。まるで親しい友人を見送るかのような笑顔だった。
しばらくがむしゃらに車を走らせた後、冬耶はようやく交通量の少ない道路へと辿り着き、路端に車を停車させた。まだ心臓がバクバクと嫌な鼓動を繰り返している。
あの男の口ぶりから察するに、恐らく今の葵の所在もどんな日常生活を送っているかも調べているのだろう。葵本人に接触しようとするのも時間の問題だ。
未だに母親の悪夢を見てうなされ続ける葵に、あんな直接的な言葉を投げかけたら……。きっと葵は壊れてしまう。
────あーちゃん、絶対に守るから。
冬耶はあの男から受け取った名刺を睨みつけながらきつく唇を噛んだ。大丈夫、もう無力な子供ではないはずだ。そう自分に言い聞かせているのに、どうしてこんなにも恐ろしいのだろうか。
湧き上がる震えを必死に押さえ込もうと拳を握ってみるが、いつでも強い”お兄ちゃん”を演じ直すにはまだしばらく時間が掛かりそうだった。
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