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act.6影踏スクランブル<119>

「忍の名前が誰かと一緒なのかな?お父さんとか?」 葵のトラウマに父親が関連していると目の当たりにしたらしい櫻はそんな当たりをつけてくる。その可能性をはっきりと言葉にせず目を背けてきたというのに配慮のない友人だ。 「改名すれば?」 「……その手があるか」 「ごめん、冗談だったんだけど」 納得した忍に、櫻は珍しく謝罪を口にした。 「別に名前などただの記号だ。何でも構わない」 「その”記号”を葵ちゃんに呼んでほしくて仕方ないくせに」 矛盾を指摘する櫻の顔には呆れと、同情が滲んでいた。完璧を良しとする忍にとってこんな目を向けられることはプライドを酷く傷付けられるが、長年の友人相手になら多少みっともない部分を知られても耐えられる。 「葵ちゃんが待ってって言うなら待ってあげたら?」 「それが葵を苦しめることになるなら、名前を変えたほうがマシだ」 葵のことは何よりも大事にしたい。初めて愛せた存在を自分の名前如きが悩ませてしまうなら、捨てることなど何とも思わない。それは別に意地などではなく、素直な気持ちだった。 「忍から”好きな人が出来た”って言われた時は驚いたなぁ。あの忍が、だよ?」 「俺を何だと思ってるんだ」 「だって、自分でもそう感じたでしょ?」 少し冷めた紅茶を口に運びながら、櫻は明るいブラウンの瞳で尋ねてくる。忍が変化した時のことを面白がるようにその表情には笑みが浮かんでいた。 「それはお互い様だろう。むしろ、潔癖なお前に積極的に触れたがる相手が出来るほうが異常だ」 「好きな相手以外に触れたくない感情のほうが、誰でも良いよりは健全だと思うけど?」 「誰でもいいわけではない。ふるいにはかけていたさ」 どうでもいい張り合いだが、お互い、相手よりは自分のほうが真っ当な人間だと思いたいのだ。 家庭環境が特殊な櫻に比べたら、忍は随分と家族仲の良い家庭で育ってきた。その点の櫻の苦労は分かち合ってはやれない。 だが一時期は北条家の長男としてのプレッシャーに押し潰されそうだった。ストレスの捌け口として、自分を求めてくる相手を受け入れ、肌を重ねる行為に溺れたことは、今となっては馬鹿なことをしていたと思う。 恋い焦がれる相手となら、手を繋ぐだけでも、キスを交わすだけでも十分に心が満たされる。いや、笑顔を見るだけでも幸せになれるのだ。それを教えてくれたのは葵。 「俺に出来ることなら何でもしてやるのに」 金もそれなりに自由になる身分だ。コネクションもある。大抵の願いなら叶えてやれる自信はあった。それこそ、名前を変えることすらも躊躇う気持ちはない。 しかし、葵にそう告げてやったところで恐らく喜んではもらえないのだろう。物言いが傲慢だと日々友人たちに注意されるおかげで、葵本人に言わないだけの判断はつくようなった。 「葵は何を求めているんだ?」 誰にともなく口にした問い掛けに、櫻は小さく首を傾げ、そしてまたピアノの前へと戻っていった。形の良い指先が鍵盤を弾き、再び室内が柔らかな音で満たされていく。きっと櫻も今葵を想っているのかもしれない。 「……あぁ、だからか」 切ない音色の理由が分かった気がする。もし葵と結ばれたなら、櫻が奏でる音は変化するのだろうか。葵を奪われるのは困るが、忍はそんな好奇心を抱いている自分に気が付いた。

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