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act.6影踏スクランブル<128>

そろそろ忍に言われた仕事をこなそうと葵が窓から体を離しかけた時だった。資料室から見える通り道に葵の心を大きく揺さぶる人物を見つけてしまう。 少し距離があるせいではっきりと姿かたちが確認出来たわけではないが、遠目からでも質の良さが分かるスーツを身に着け、艷やかな黒髪を風に揺らす彼は、幼い頃の記憶と何ら変わりがない。 「……パパ?」 発した瞬間にズキリと頭が痛みを訴えてくる。でも嫌な痛みではない。なぜ彼がここに居るのか。溢れてくる疑問を消化しきれないまま、葵は衝動に任せて部屋を飛び出していた。 会ってどうしたいのか。そんなことを考える暇はない。彼がこの学園に居る理由は、自分以外に無いはずなのだ。 会いに来てくれた、迎えに来てくれた。 葵は自身でも気が付かなかった願望が叶うことに胸を高鳴らせてもいた。普段全速力で走るなと止められていることも忘れ、ただがむしゃらに階段を駆け下り、特別棟の扉を開け放した。 彼が見えたのは校舎から高等部の正門へと向かうための道。両脇に緑の葉が生い茂る木々が並ぶそこに出ても、葵の期待に反してさっきまで居たはずの彼の姿は見えない。一旦足を止めて左右をキョロキョロと見渡すが、そこには練習の一環か、ランニングをする運動部の部員たちしかいなかった。 「どこ?パパ、どこ?」 また捨てられてしまう。淡い期待に弾んだ気持ちは、いつしか焦りと恐怖のほうが割合を占めてくる。葵は一度は門まで向かうことを考えたが、窓から見えた地点がちょうど教職員や来客用の駐車場への分岐点であることを思い出した。もしかしたら、と葵は普段あまり足の運ぶことのない学園裏へと向かうことを選んだ。 生徒の影がないエリアは遠くで吹奏楽部の演奏が聞こえるぐらいで静まり返っている。綺麗に並んで駐車された車の列を一つ一つ確認するように走っていくと、ちょうど一台の車が動き始めていることに気が付いた。 葵でも名前を知っている高級車のブランド。曇りなく磨かれた黒塗りの車は葵が居るほうとは反対に向かって少しずつ速度を上げていく。 もうすっかりと息が上がっている状態で苦しくて堪らなかったけれど、葵は限界を訴える身体に鞭打ち、車に向かって走り出した。 走り慣れていない葵の速度などたかが知れている。だが絶対に追いつけないと分かっていても、十年以上待ち望んだ人物が目の前にいるのだ。諦めるわけにはいかなかった。 「……ぱ、ぱ、待って」 大きな声を出せたわけではない。荒い呼吸の中でようやく紡いだ懇願が届いたかのように、車が急に速度を落とした。完全に停まったわけではないものの、距離は少しずつ近づいていく。

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