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act.6影踏スクランブル<149>

* * * * * * 馴染みのない煙草と香水の香り。混濁している意識の中で不思議とそれはクリアに葵の鼻をくすぐってくる。嗅ぐと安心するのだ。思わずもっとそれを嗅ぎたくて身を捩れば、頭上から笑い声が聞こえた。 「ほんと、猫みたいだネお前」 「……ねこ、は、みゃーちゃん」 「は?何それ。まだラリってんのな」 “猫”と聞いて浮かんだことをそのまま口にすれば、怪訝な声が降ってくる。その声もあまり葵には馴染みのないもの。 ────誰、だっけ。 ぼやける視界をどうにかしようと目を擦ろうとすれば、手が不自由なことを思い出す。仕方なく両手でゴシゴシと目元に滲む涙を拭うとやっと目の前の燃えるような赤髪がはっきりと見えた。 そう、この色は覚えている。葵を助けてくれた色。少し前のはずの記憶も意識しなければ思い出せない。そして今、野外に居るのは肌で感じるものの、心地よい揺れと共に目指す場所がどこなのか、葵には分からない。 「ど、こ?」 「んー?いいとこ。着いたら全部取ってあげるネ」 「……これ?」 何の話をしているのか分からず、葵は自分の両手をかざしてみせる。これを取ってくれるならやはりいい人だ。葵を助けてくれた、優しい人。だから葵は安心して再び体から力を抜く。その様子に、また小さく笑い声が聞こえた気がした。 しばらく彼の腕に抱かれ心地良さにウトウトしていると、耳をつんざくような激しいブレーキ音が響いた。思わず体をビクつかせた葵を、彼はもう一度強く抱え直してくれる。 目の前に停まったのは赤いスポーツカーだった。それを眺めながら、葵は今自分を抱く人物の髪と、どちらか赤いだろうとそんなことを考える。 「あーちゃん!」 車から出てきたのは葵の大好きな兄だった。でもいつものにこやかな表情はなく、ただただ怖い顔をしている。疲れているようにも見えた。何か怒らせることをしてしまったのだろうか。葵は不安になるけれど、心当たりはない。 「九夜、あーちゃんに何をした」 冬耶の声も葵が聞いたことのないほど冷たく、鋭い。 「あらら、見つかっちゃった。残念。やっぱ車で外でたほうが良かったネ、チビちゃん」 「何をしたか聞いてるんだ。答えろ」 「言う必要ある?見りゃわかるでしょ」 彼は冬耶の怒気にも動じず、葵の体を抱く向きを変えた。必然的に冬耶に体を晒すような形になる。自分がどんな格好をしているのか。その自覚すらなかったが、冬耶が途端に泣き出しそうなほど顔を歪めたのを見て胸が痛くなる。 「おに、ちゃん」 「あっちがいいの?」 冬耶があんな風に泣くなんて、葵が記憶する限り一度もない。いつでも強い兄が顔を覆う姿が見ていられなくて思わず手を伸ばせば、葵を抱く男が尋ねてきた。冬耶のことが心配。その気持ちで葵が頷くと、彼は”分かった”と言って葵を地面に下ろしてくれた。 だが足を付けた瞬間、自分の体に埋まるものの存在を強く自覚させられる。 「……あぁッ」 思わず膝から崩れ落ちれば、冬耶がすかさず葵の体を支えに来てくれた。そのまま優しく、優しく抱き締めてくれる。その腕の温かさはいつもと変わらないのに、冬耶はやはり泣きそうに眉をひそめていた。 「九夜、絶対に許さない。覚えておけ」 「チビちゃん、また遊ぼう。今度はラリってない時にネ」 怒る冬耶の言葉に応えず、彼は葵にバイバイと手を振ってきた。だから葵も不自由な手で振り返してみるが、それは冬耶に差し止められた。少し強引なくらいに背を向け、彼から引き離されてしまう。それが少し、寂しかった。

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