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act.6影踏スクランブル<169>

答えが分かってすっきりはするものの、一度込み上げて来た吐き気が治るわけではない。冬耶の手によって連れて行かれた洗面台に顔を寄せてみるが、空っぽの胃からは何も浮かばず、ただ苦しいだけの涙が頬を伝えっていく。 それに自分の体を支えることすら、今の葵には辛かった。体重を掛けるだけで左足首から痺れるような痛みが走るのだ。冬耶が背後から抱きかかえてくれなければ、きっと支えきれずに崩れ落ちていたに違いない。 ここまで体にダメージが残っている理由。探らなければいけないのかもしれないが、葵はもう何も思い出したくなかった。今は記憶にそっと蓋をして平常心を取り戻すことだけを心掛ける。 「お兄ちゃん、ありがとう。もう大丈夫」 「……あーちゃん、無理して笑わないで。それが一番辛い」 洗面台に手をついて振り返り、兄を安心させるように言葉を発すると、冬耶からは眉をひそめられてしまった。正面から抱きすくめられ、額や頬にキスを落としてくる仕草はいつも通りだけれど、表情だけは違う。今にも泣きそうな、心許ない顔。 「心配かけてごめんなさい。本当にもう、大丈夫だから」 いつでも強くて優しい兄にこんな顔をさせている。その理由が他でもない、葵自身だという自覚くらいはあった。だから葵からも冬耶に腕を回し、もう一度笑顔を向けてみる。でもそれは逆効果だったようだ。 「違うんだよあーちゃん。お兄ちゃんじゃなくて、自分のこと気に掛けて。大丈夫なんて、嘘つかないで。ちゃんと甘えて」 “しょうがないな”、そんな風にいつもなら流してくれる冬耶も今は厳しい顔で葵を叱ってきた。忘れようとする、いや、忘れたフリをすることは許されないらしい。でも何があったのか、なんて怖くて向き合えそうもない。何も無かったことにしたい。 「……今何時?学校、行かなきゃ」 「あーちゃん!ちゃんとこっち見て、お兄ちゃんに言うことはそれだけなの?」 腕からすり抜けようとしても、がっしりと肩を掴まれて引き戻される。その剣幕に、葵は思わず目を伏せた。冬耶からこんな風に詰め寄られた経験などほとんどない。いつでも甘やかしてくれる冬耶に慣れすぎていて、どう対処したら良いのか分からない。 「あぁごめん。怖がらせるつもりはなかったんだ。あーちゃんのことを怒ってるわけじゃない。それは分かって」 震える手で溢れる涙を拭っていると、身を屈めた冬耶からは優しく抱き締められた。宥めるように背中をさすられて少しずつ体の強張りが解れてくる。

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