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act.6影踏スクランブル<170>

「本当に学校行きたい?行かなきゃ、じゃなくて行きたい?」 葵の呼吸が落ち着いたのを見計らって、冬耶はそう問い掛けてきた。コツンと合わされた額から伝わる体温は、いつも通り温かい。 冬耶のように元から頭の出来が良いわけではない。一度授業を休んだだけでも、追い付くのに一苦労させられる。試験も近づいて来た今、休むことは葵にとっては相当リスクを伴う。 それに放課後行われる生徒会の活動も休みたくなどない。昨日寝不足のあまり失態をしでかしたから余計だ。 でもそうではなく、冬耶は葵の気持ちを尋ねている。本心に素直になれば、今、学園に行くのは怖い。一ノ瀬に会うかもしれない。想像しただけで再び体が震えてくる。思わず葵から冬耶に抱きついて、恐怖心をやり過ごす。 「今日はお休みしよう?」 「……うん」 もう誤魔化しきれなかった。抱え上げてくれる冬耶に促され、葵は小さく頷きを返した。 部屋に戻ると、宮岡が朝食の準備をしてくれていた。壁に掛けられた時計の針は一時間目の授業が始まる時間を指し示している。いずれにしても、きちんと登校することなど叶わなかったのだ。 「まだ食欲湧かないよね。少し様子見ようか」 さっき洗面台の鏡で見た自分の顔色は、生気のない青白さだった。恐らく誰が見ても具合が悪そうに映るだろう。宮岡はせっかく並べた朝食をそのままに、葵をソファへと誘導してくれた。 葵はタオルケットに包まりながら改めてゆっくりと今の状況を整理する。もちろん触れるのが恐ろしい記憶には蓋をしたまま。思い出すのはただ、夕焼けの陽の光に包まれた馨の姿。 どうしてあの場に彼が居たのか。そして自分は彼を追いかけて一体どうしようと思ったのか。冷静な今でも答えが分からない。 確かなのは、馨が迎えに来てくれたのではと、期待に胸を弾ませたこと。決して西名家と離れたいわけではない。叶うことならずっと共に居たいと思う。それは間違いなく本心だが、どうしようもなく馨が恋しいのも事実。 ああやって出会ってしまわない限り、きっとずっと我慢出来ていた感情だ。でもあの横顔も、声も、身近に感じてしまえば途端に溢れて止まらない。今も、昨日見た姿や、耳に残る言葉を鮮やかに思い出して視界がぼやけていく。 冬耶や宮岡にバレないよう、静かに涙を拭ってみるが、彼等にはお見通しらしい。 冬耶にはタオルケット越しに肩を抱き寄せられるし、宮岡は淹れたてのココアを差し出してくれる。その優しさに、葵はまた少しだけ、頬を濡らした。

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