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act.6影踏スクランブル<183>

「あれ、帰るのって来月じゃなかった?もう支度してるの?」 上下ネイビーのランニングウェアに身を包んだ彼は、これから走りに向かうところだったのだろう。だが、旅支度で荒れた部屋の状態を見つけるなり、そのまま無遠慮に室内に身を乗り出してきた。 「何かあった?またアオイちゃん?」 前回葵が西名家に帰りたくないとごねた時も、こうして帰国の準備をしていたことをルイは知っている。だから心配と、そして少しだけ呆れが入り混じった顔をしてみせるのだ。 「帰ればいいのに」 「そう簡単なものじゃないんだよ」 「だって好きな子が困ってるわけでしょ?ここまで準備しておいて、なんで帰らないの?」 僕だったら帰るけど、そう言いながらルイは遥が座るベッドの向かい、古ぼけたアンティークチェアに腰を下ろした。 ルイは情熱的で恋多き男だ。今まで何人もの彼の恋人に遭遇してきた。遥が暮らすこの部屋も、彼の前の恋人が使っていたもの。彼はどうしても恋が長続きしないものの、その一つ一つをとても大切にしている。刹那的な恋愛を楽しんでいる、とも言えるかもしれない。 だから遥が好きな子をおいて日本を離れていることも、その子のピンチに駆けつけないことも、彼にとっては理解しがたいらしい。 「ハルのこと、待ってるんじゃない?」 「多分な」 「じゃあなんで?いつか愛想つかされるよ、そんなに冷たくしてたら」 冷たくしているわけではない。そう反論しようとして、遥は口を噤んだ。確かに傍からみたら遥の愛情の注ぎ方は異端なのだろう。冷たいと思われても無理はない。先ほどまで電話していた親友、冬耶にも度々苦言を呈されている。 「今帰ったら、葵ちゃん傷つけた奴に何するか分からない。犯罪者にならないように自制してるんだよ」 「いいんじゃない?恋人のために罪を犯すなんて素敵だと思うけど」 「……あぁ、そういう奴だよな、ルイは」 「あ、もちろん友として、ハルが捕まるのは悲しいよ?」 恋が続かないのは、ルイのこういうぶっ飛んだ思考のせいだろう。ダークブラウンの瞳で真っ直ぐに遥を見据えながら、にこにこと笑うルイはどこか底知れない危うさがある。 だが冗談ではなく、今手の届く距離に一ノ瀬がいたら、きっと理性を保てないだろう。危ないのは遥もルイと同じかもしれない。それに、と遥は自身の左腕にそっと触れた。袖の下には縫合の跡が残っている。この傷をつけた人物も、昨晩葵に触れたらしい。 「まだ痛むの?そこ」 「たまに引きつる感じがするぐらい。痛みはないよ」 数年前に怪我を負ったぐらいのことはルイも知っている。父と同じパティシエを目指していた遥にとって、腕への傷は何よりも酷い仕打ちだった。割れたガラス片を凶器にされたおかげで、傷跡が醜く歪んだことも許せない。 九夜若葉。 詳しい経緯は冬耶も分からないらしいが、一ノ瀬の手から葵を救ったのは彼らしい。だが、葵を保護するなんてつもりは更々なかっただろう。冬耶が見つけてくれて本当に良かった。 だが、今までちっとも関心を寄せていなかった葵に食指が動いたというのは気にかかる。九夜という男は欲しいものは絶対に手に入れるし、気に入らないものは徹底的に壊す。

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