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act.6影踏スクランブル<184>

「でもハルさ、何も作ってくれないよね。こっち来てくれるから色々期待してたんだよ?腕のせいなのかなぁって気遣って何も言わなかったけどさ」 ルイは椅子の背に思い切り体をもたれかけ、伸びをしながらそんなことを言ってきた。 「もうパティシエは目指さないんだっけ?こっち来てから別の勉強ばっかりだし。もったいない」 「葵ちゃんがいないから、作る気になれないんだよ」 夢を諦めているわけではない。ただ言葉通り、葵以外に作る喜びが見出せないのだ。ここ二、三年でそれが顕著になり、こうして離れてからはキッチンに向かいたいとも思えない。その先に求めている笑顔がないのだから、どうにも気分が乗らないのだ。 このフランス滞在は、遥自身がそれを確かめたかった、というのも理由の一つである。 「ねぇ、ハル、やっぱりおかしいよ。そんなに好きなのになんで離れるの?僕には理解できない」 ルイは肩を竦めながらこの会話に終止符を打ち、部屋を出て行ってしまった。 理解されたいと思うわけではないが、こう面と向かって自分の愛情の注ぎ方を否定されると気分がいいものではない。 葵を自立させてやりたい。好きなものを沢山増やしてほしい。その気持ちのどこがおかしいのだろうか。 その上で、葵が甘えてすがり、何よりも一番好きな存在は遥であってほしい。それもまた、異常な願いなのだろうか。 遥はそんなことをぼんやり考えながら、今度こそベッドに横になった。乱暴に端に寄せたバッグから、詰め込まれた荷物が雪崩のように降ってくるが、気にならない。だがコツンと頭にぶつかったものを目にした瞬間、フッと口元が緩んでしまう。 「なんでこれ持ってこうとしたんだろ」 デスクに飾っていた写真立てをわざわざ日本に持って行こうとするなんて馬鹿げている。絶対に必要なもの、ではないはずだ。でも、木枠の奥でこちらに微笑みかける葵の姿は、遥にとって心の支えには違いない。 葵は元々写真に映るのが大の苦手だった。実父の玩具として、散々カメラを向けられてきた記憶のせいだろう。西名家に馴染むうちに家族写真には慣れたものの、一人きりで写真を撮られるのはどうしても嫌らしい。証明写真ですらできれば避けたいと願うほど。 でも遥は日本を旅立つ時、一つ我儘を言ってみせた。葵だけが映る笑顔の写真が欲しい、と。葵は遥の願いなら断りはしない。すぐに頷き、受け入れはしたものの、やはりどうしてもうまく笑えない。 二人で思い出話に花を咲かせて、手を繋ぎ、キスを交わして、そうしてようやくこの微笑みを引き出した。少し照れたように頬を赤らめているのは直前まで唇を重ねていたからで、フレームの外では互いの指も絡めている。 何より可愛くて大切でかけがえのない存在。 遥にとって宝物のような彼を傷つける者はやはり何であっても許せない。湧き上がる怒りを逃すように遥は深呼吸を数度繰り返して目を瞑る。瞼の裏に浮かぶのはあの笑顔ではない。こちらに救いを求めるように手を伸ばし泣きじゃくる、いつかの葵の姿だった。

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