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act.6影踏スクランブル<187>
緩急をつけた車の動きに弄ばれ、ようやく掴めると思った馨の手は、あっさりと離れていってしまう。車を出すように命じた馨の声は、程よく低く、とびきり甘かった。
彼が恋しくて恋しくて、駐車場の砂利に突っ伏すように泣きじゃくったことも思い出す。
「……そっか、パパだと、思ったんだ」
涙でぼやけた視界の中に突然現れた茶色い革靴。葵よりもサイズの大きなそれを見て、いなくなってしまったばかりの馨だと思ったのだ。だから差し伸べられた手を取った。でもそれが一ノ瀬だったのだろう。
「あれはパパじゃ、なかった」
目覚めた時に馨がそばにいなかった時点で、明らかな事実。でも口に出して初めて理解できた。同時に、涙が溢れてくる。もうとっくに枯れていてもおかしくないほど泣いたというのに、涙はいくらでも出てくるようだ。都古が慰めるように、頬に伝う涙を唇で拭ってくる。
「“パパ”が良かった?」
なぜか京介までどこか悲しげな顔になる。彼からの問いかけに素直に頷いてはいけない気がして、葵はただ彼の目を見つめ返した。
「怒らねぇよ。葵があいつに会いたがるのは多分、自然なことだろうから」
馨のことを“あいつ”と表現するあたり、京介が彼を良く思っていないのは明らかだ。両親に怒られるたびに京介に泣きついていたのだから、悪く思われるのも仕方ないのかもしれない。
「あいつと話した?」
「ううん、窓から見えて、追いかけて……でも、追いつけなかった」
「そっか」
「……もし話せたとしても、どうしたかったか分からない」
あの時の衝動をうまく言葉にすることは出来なかった。それを正直に打ち明ければ、京介は葵の髪を撫でてくれる。
「葵さ、ずっと俺らと居たいって、たまに言うじゃん?あれが今もちゃんとお前の本心だって、信じていい?」
京介の言う“俺ら”が西名家を指すのか、それともこの場にいる都古のことを指すのかは分からない。でもどちらにせよ、葵がずっと一緒に居たいと願う存在には変わりなかった。
でもそれは馨を恋しがる心と、共生させてはいけないものなのだろうか。少しだけもやもやとした気持ちを抱えながら頷けば、京介は褒めるように葵の頭をぽんと叩いてきた。
「とりあえず、今はそれでいいや。兄貴が新しい制服注文したらしいから、出来上がるまでゆっくり休め」
余計なお金を使わせてしまった。それがまた葵の気持ちを暗くさせる。
「もう見つからない、かな?」
「見つかったとして、お前、それ着たい?俺は着せたくねぇよ」
「……俺も」
珍しく都古まで京介に同調してきた。これはもう、抗いようがないのだろう。観念したように頷けば、二人揃ってホッとしたような息が溢れたのが印象的だった。
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