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act.6影踏スクランブル<194>

* * * * * * 「お兄ちゃん、洗えたよ」 断続的に続いたシャワーの水音が完全に途切れると同時に、磨りガラスの向こうから控えめに呼びかけられる。冬耶はそれを受け、準備していた大判のバスタオルを手に浴室の扉を開いた。 「お湯染みなかった?」 「大丈夫、お兄ちゃんがこれ巻いてくれたから」 湯気の中でほんのりを頬を上気させる葵をタオルで包んでやると、彼は見せつけるように手首をこちらに差し出してきた。包帯の上から重ねてやったビニール製のプロテクターがきちんと機能してくれたようだ。だが、白い肌にポツポツと浮かぶ噛み痕や、引っかき傷までは守りきれない。きっと痛かったはずだ。 それが分かっていたから、冬耶は葵から入浴したいと言われた時、すぐに蒸しタオルで拭いてやることを提案した。だが、洗い流したいのだと言われればそれ以上何も言えなかった。一ノ瀬の痕跡が残る体のままでは居たくない、そんな気持ちが透けて見えたからだ。 とはいえ、片足が不自由な葵を一人で、滑りやすい浴室に放り込むのは気が引けた。せめて付き添うと提案したのだが、それも断られ、こうして浴室と脱衣所との送り迎えを請け負うことでお互い妥協したのだ。 「……あーちゃん、ここ強く擦った?」 濡れた体を拭いてやっていた冬耶が気になったのは、傷跡がどれも真っ赤になっていること。血行が良くなっただけかと思ったが、どうも様子がおかしい。 「ううん、してない」 「本当?治りが遅くなるから、ダメだよ」 葵は言葉だけでなく、首を横に振って否定してくるが、その目にはどこか怯えが見えた。嘘が付けないところは可愛いが、葵がこんな行動に走った理由が気がかりだ。 「綺麗に治らなくなるかもしれないだろ。どうしてこんなことしたの?」 「……もう、しない。ごめんなさい」 少しだけ強い口調で諭せば、葵はすぐに謝罪を口にしてきた。だが理由までは答えなかった。強引に暴くべきか、見守るべきか。兄としての振る舞いを悩んだ末、冬耶は葵のパジャマのボタンを留め、傷跡を隠してやることにした。そうすると、葵からはホッと吐息が溢れたのがわかる。 見過ごすわけではない。理由はなんとなく読めていた。幼い頃、母親に付けられた傷をなんとか隠そうと、泣きながら指で擦っていた葵の姿を何度も見ている。傷があるとパパに怒られるから、そう言って葵は必死になっていた。その度に冬耶は無力な自分を呪っていたのだ。

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