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act.6影踏スクランブル<202>
「葵が無事かどうか、それも知らない?」
「……お坊っちゃまを心配なさっているんですか?」
「俺をなんだと思ってんの。そりゃするでしょ」
意外そうな目を向けられて、椿こそ驚いた。数時間とはいえ、行方不明になった挙句、制服を注文したと聞けば、馨でなくても嫌な想像をしてしまう。
馨が追いかけてきた葵を突き放した時、車には椿も同乗していた。バックミラー越しに見た葵の泣きじゃくる姿は、椿の胸を痛ませた。と同時に、一度は自分を捨てた馨に縋ろうとした葵には少しがっかりもした。
「愚かだとは思うけどね。それでも可愛いよ、葵のことは」
椿が正直な気持ちを返せば、穂高は椿を一瞥してきた。
「それならあまり社長を煽らないでいただけますか」
「煽るって?俺は馨のこと止めてるつもりだけど?」
葵を馨の手中に収めさせることなど、椿は望んでいない。建前上馨に仕えながらも、馨の失脚を狙う宮岡と結託している穂高とは分かり合えると思っているのに残念だ。
「愚かなのはあなたのほうですよ」
穂高はそんな捨て台詞を残して部屋を出て行った。一体何がそんなに気に食わないというのだろうか。
椿は、再びソファに体を横たえさせて深く息を吸い込む。珈琲が掛かった胸元はヒリヒリと痛んできた。馨や穂高とのやりとりは椿の気分まで悪くさせる。
“椿はお父さん似ね。笑った顔がそっくり”
幼い頃、そう言って椿の頭を撫でてきた母の幸せそうな顔をよく思い出す。そして夜中に一人、馨の写真を手に、静かに泣いていた母の姿も。
ある程度の年齢になった椿が、母の親戚や知人を訪ねて得た情報を掛け合わせれば、二人が愛し合っていたことは事実だろう。身分違いな上に、当時馨は未成年だった。無理に引き離されただけで、馨が乱暴を働いたわけではないことはわかっていた。
母をも侮辱するような発言を迂闊にしてしまったことで、じわじわと罪悪感が湧き上がってくる。
“ねぇ、なんで葵と暮らせないの?”
兄弟が欲しいとごねた椿に、母がいつだったか、葵の存在を教えてくれたことがあった。でも椿は、周りの友人たちのように、一緒に遊べる相手が欲しかったのだ。遠くにいる弟など、居ないも同然だ。その時に、こう尋ねたことも覚えている。
椿の願いは、母の死と引き換えに思わぬ形で叶ったが、それも束の間の夢だった。
“なんで葵と暮らせないの?”
西名家に連れられ施設を去る葵を見送りながら、椿は母にねだった時と同じ言葉で、何度も職員を問い詰めた。そこでもやはり、納得のいくような返事はもらえなかった。
三度目はないと信じたい。でも葵の前ではまだ、サングラスを外す勇気はでなかった。馨の言いつけを守りたいわけではなく、椿の素顔を見ても葵が何も思い出さないことが怖いのだ。
だから今はただ影のように葵に付きまとうことしか出来ない。それを愚かと評されるなら仕方ないことなのだろうか。椿はただ唇を噛んで悔しさを堪えることしか出来なかった。
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