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act.7昏迷ノスタルジア<9>

「あの時、カラスは葵が車で攫われたかもしれないと言った。それを受けて、西名、お前も迷わず学園の外に出て行ったな。結局一ノ瀬が要因だったわけだが、誰のせいだと思ったんだ?」 答えは簡単だ。馨が攫ったのだと、西名家も都古もそう思っただけのこと。だが、忍をはじめ、彼らにはそういった事情を何一つ打ち明けてはいない。家庭の問題だということぐらいは察しているだろうが、今ここで簡単に話せることでもない。 とはいえ、彼らは葵の捜索に尽力してくれた。関係ないと突き放すこともまた、容易ではない。 「それも、葵の抱えているものに繋がるのか?」 「……あぁ」 「それなら、待つしかない、ということか」 忍は諦めにも似た表情で、京介から視線を逸らした。生まれた沈黙に耐えきれず京介が静かに腰をあげると、忍が追いかけるように声を掛けてきた。 「先ほど、職員室で教員同士が会話しているのを小耳に挟んだんだ」 「なんて?」 「葵の学費について話しているのだけは理解できた」 どうやら馨の来訪は教師間ではすでに広まってしまっているらしい。陽平が、葵本人の耳に入らぬよう口止めをしたはずだが、それほど効力を持たせられなかったようだ。 「こういう言い方は不愉快だろうが、金の問題なら協力できることはある。遠慮せずに頼って構わない」 忍は本当に、葵の名と、学費というワードしか聞こえなかったのだろう。珍しく歯切れ悪く切り出してきたのは、援助の申し出だった。 ただでさえ西名家と藤沢家、双方から過剰に学園へ金が渡っている状態だ。ここでさらに北条家が介入してくれば、学園だけが喜ばしい事態になってしまう。 とはいえ、ここで彼にそれを伝えるわけにはいかず、京介はただはぐらかすことを選んだ。 「アンタの金じゃなくて、家の金だろ」 「俺の判断で自由になる金ならあるし、何より、葵が大事な存在だと、家族には紹介済みだ。支障はない」 そういえば、葵は彼の家に泊まったのだった。学費を肩代わりしても支障がない存在とは、一体どのように葵を紹介したのか、恐ろしい。 「まぁ、いつでも頼ってくれ」 忍は自らそう言って会話を切り上げた。初めから京介がこの場で相談することなど見越していなかったようだ。それでも、一言言わずにはいられなかった彼の思いまでは、跳ね除ける必要はないだろう。 言葉の代わりに軽く手を上げて背中を向ければ、カチャリと小さな音がする。扉を閉める際に少しだけ視線をやれば、それが眼鏡を机に放ったために生まれた音だと理解した。 一瞬だけ見えたのは、目頭を摘んで俯いている姿。疲れを感じさせる様子は、いつも年不相応なほど堂々としている忍らしくない。 初めは葵を口説く行為自体を楽しんでいるのかと疑っていたが、彼との会話を重ねる中で、葵への思いが本物だということはそろそろ信じてもいいと思えてきた。でもそれなら余計に彼は葵に深入りすべきでない。 彼の名前が葵を苦しめる呪詛になる。それを知ったら、彼はどう感じるのだろうか。自分ならばきっと耐えられない。京介は哀れな恋をするライバルへの同情を胸に芽生えさせながら、棟を後にした。

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