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act.7昏迷ノスタルジア<10>

* * * * * * 「それじゃあ、また今度」 見送りの言葉に、冬耶は車窓から軽く手を出すことで返事をした。腕に幾重にもつけたシルバーのブレスレットがかちゃりと小気味いい音を立てる。 葵には大学に行く、と言って家を出てきたが、最初の目的地は宮岡の家だった。昨日の朝ここに置いてきた自分の車を引き取るだけのはずだったが、誘われるがまま彼の部屋でコーヒーを一杯ごちそうになってきた。 次の目的地へは三十分ほどの道のり。初夏の日差しを浴びながらのドライブは本来なら楽しいはずのものだが、家に残した葵のことが心配でたまらないし、何より今は宮岡との会話が頭の中をぐるぐると巡っている状態。 せめて音楽だけでも、と車内に流し始めたEDMも冬耶の気分を晴らしてくれそうにない。 ──制服、か。 まず宮岡から一番に告げられたのは、馨が葵の制服をオーダーしたという話だった。宮岡自身、穂高との限られた通話時間の中で得た情報のため、詳しい経緯までは把握できていないようだ。だが、無視しておける話でもない。 一体彼は何を考えているのだろうか。 今までのこともそうだ。ぬいぐるみを送りつけたり、学園に直接現金を持ち込んだり。彼の目的であるはずの葵を引き取ることには、直接繋がりそうもない行動だ。 己の賢さには自信のある冬耶でも、狂人と評される男の思考回路を読むことはたやすくない。 そしてもう一つ。宮岡からもたらされた情報が冬耶を更に動揺させた。 “このあいだ葵くんが近くにいる場では伝えられなかったから” そんな前置きで打ち明けられたのは、葵の実兄の話だった。 「篠田、椿」 その名を聞いたとき、藤沢の姓を名乗っていないことに疑問を感じた。正式に跡取りだと認められていないのかと思ったが、宮岡の話ではどうやら藤沢家に敵対心を持つ男らしい。そして西名家に対しても。 葵に接触をしているらしいとも聞いて合点がいった。おそらく、連休中に葵の様子がたびたび不安定になったのは、彼に何かを吹き込まれていたからなのだろう。 “篠田椿はここで葵くんと出会っている可能性が高い” そう言って宮岡が示したのはとある児童養護施設の名前。それには冬耶も覚えがあった。葵が一時的に過ごした場所だ。そこに椿もいたのだという。 もしそこで葵と兄弟としての絆を育んでいたとしたら。葵がそのときの記憶を蘇らせたとしたら。 ──あーちゃんが“お兄ちゃん”を求めたとしたら。 馨の元へ、だけではない。葵が椿の手を取って、西名家から去ってしまう未来だって有り得るのだ。葵の選んだ幸せの形ならばそれでも良いと思いたいが、今は想像するだけでも胸が苦しくなる。 後続の車から鳴らされたクラクションで、冬耶は目の前の信号がいつのまにか青に変わっていることに気が付いた。慌ててアクセルを踏みながら、冬耶はようやく頭を次へと切り替える。冬耶が解決しなければならない問題はまだ山のようにあるのだ。

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