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act.7昏迷ノスタルジア<11>

目的のマンションに近づけば、植え込みに座っていた金髪頭もこちらに気が付き歩み寄ってくる。冬耶が尋ねる前に彼、幸樹は空いた駐車スペースを指差してきた。そこに停めろ、ということなのだろう。 エンジンを切り幸樹のもとに向かうと、彼が退屈だった証のようにコーヒーの缶が二つ並んでいるのが見えた。 「遅れてごめんな。外で待ってなくてもよかったのに」 「やー、なんか気ぃ抜いたら寝そうやったから」 冬耶の詫びに対し、幸樹は大きなあくびで返事をした。長身の冬耶よりも上背のある彼が腕を上げて伸びをすれば、さらに大きく見える。冬耶への気遣いではなく、本当に寝不足なのだろう。健康的な肌色に不似合いなくまがうっすらと目元に浮かんでいる。 彼の先導を受けて入った室内は一人で暮らすには十分すぎる広さがあった。だが生活感はほとんどない。ソファすらもないため、冬耶はかろうじて置かれたテーブルの前の床に直接腰を下ろした。 引き戸で仕切られた奥のスペースに一度は向かった幸樹も、両手に何かを抱えて冬耶と向かい合うように座る。そのほとんどが写真で、写っている人物はすべて同じ。 「これ、全部一ノ瀬の部屋から?」 「ほんの一部やけど」 一ノ瀬が葵に目を付けたのは中等部からだと思っていたが、写真を見ればそれが誤りだと分かる。初等部の頃の葵を盗み撮りしたものまであったのだ。それに幸樹も気が付き、彼の部屋からピックアップしてきたのだろう。 「んで、これも部屋にあった」 さらに幸樹が出してきたのは大判のアートブックだった。なめらかなシルクのような肌触りの表紙には金糸で“I”とだけ記されている。I(アイ)、その響きには覚えがあった。 気を落ち着かせるように一つ呼吸をしてから最初のページをめくると、そこにはやはり幼い日の葵がいた。鳥かごを模したケージの中にいる葵の背には真っ白な羽がある。天使が実在するならこんな姿であろうと、そう思わせるほど愛らしい光景だが、葵の作り物の笑顔は冬耶を苦しめた。 葵の写真集が存在することは知っていたが、実物を手にするのは初めてだ。もともと数の少なかった初版本があっという間に売り切れたにもかかわらず、増刷されず、そのまま絶版になったがゆえに界隈では幻とされるものだからだ。 「ガッコで藤沢ちゃん見っけて、運命だと思ったんだと」 それ以上ページをめくらず、静かに写真集を閉じた冬耶に、幸樹は一ノ瀬の妄言を伝えてくる。Iのファンだった一ノ瀬が葵と出会ったのは偶然だったのだろう。葵に異常な執着を示していたのにも納得がいく。馨が作り出した幻想に溺れた男が現実世界で葵を見つけ、それを“運命”だと評したくなるのも。 「一ノ瀬の様子は?」 「んーだいぶ落ち着いてはきたんちゃうかな。まだ藤沢ちゃんと相思相愛って言い張っとるけど」 「実物、ある?」 冬耶の問いに、幸樹は封筒を渡してきた。受け取った手紙に刻まれているのは確かに葵の字だ。だが、直筆ではなく、印刷されたもの。誰かが一ノ瀬の妄想を悪化させるためにけしかけたのは間違いないだろう。 「連休明け、図書館から去年度の生徒会議事録がパクられてたっぽい。一応入り口の防犯カメラ調べてみたけど、テスト前で利用者が増えたタイミングやから、特定はむずいかもしれん」 やはり彼は頼りになる。あの夜、身を隠した一ノ瀬を捕まえただけでも助かっているというのに、冬耶が望むことを先回りして動いてくれる。

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