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act.7昏迷ノスタルジア<13>

「西名さん」 今後の動きについてのすり合わせを終えれば、もうここには用はない。席を立った冬耶のあとを追うように、幸樹も立ち上がってきた。 「藤沢ちゃん、また……せぇへんかな?」 大柄な彼には似合わない、弱々しい声音。今までの頼り甲斐のある男の姿はそこにはなかった。 「また、って?」 「歓迎会のとき、みたいな」 あの出来事に責任を感じている幸樹にとっては、冬耶相手にはっきりと口に出しにくいことなのだろう。 一ノ瀬からの暴行で深く傷ついた葵がこの世から旅立つ可能性がある。それを恐れているらしい。 「大丈夫。今朝だって登校したがったぐらいだよ?中間試験が心配なんだってさ」 「試験て……んなもん、もうなんやのあの子」 葵の様子を教えてやれば、幸樹の表情は呆れ顔に変わった。と同時に、そんな葵への愛しさも滲ませた。 「だから、悪いけどまだ働いてもらうよ。あーちゃんが安全に登校できるように、な」 頼りにしている、そう示すように彼の筋肉質な肩をぽんと叩けば、期待に応えるような笑みが返ってきた。 冬耶の仕事はまだ終わらない。葵の環境を安全に整えるにはまだまだ為すべきことがあるのだ。運転席に滑り込んだ冬耶は発車前に一度、幸樹から受け取った物を見返した。 先程は一ページ目しか開かなかった写真集。それを手に取り、改めてページをめくっていく。現れるのは様々な衣装を身に纏った幼い葵。 隣家に越してきた日の葵も、可憐なワンピースを着せられていた。だから最初は冬耶も京介も女の子がやってきたと思ったのだ。 “あおいって、なんでこんなカッコしてんの” いつだったか、怖いもの知らずだった京介が馨に直接尋ねたことがあった。京介としては、いくら葵を外遊びに誘っても“服が汚れるから”と断られてばかりなのが不満だったようだ。もっと動きやすい格好をさせてほしい、そう訴えたかったのだと思う。 “だって、可愛いでしょう?こっちのほうが” 京介の疑問を物ともせず、馨はさも当たり前のようにそう返していた。そうして葵を抱き上げ、額に口付けたことも冬耶は覚えている。額の次は頬に。そして唇に。 あのとき感じたぼんやりとした嫌悪感。成長した今なら分かる。馨は間違いなく、葵に近づく兄弟を牽制しようとしていた。葵は自分のものだと目の前でマーキングしてみせたのだ。子供相手にも遠慮ない嫉妬を見せたのはこの時だけではなかった。 葵に対しての愛情は、父親としてのものでは到底ない。写真集を見てもそれは分かる。 幸樹には大丈夫だと伝えたが、実のところ冬耶は不安だった。 もし馨が幼い葵に口付け以上の性的な悪戯を施していたとしたら? 過去の記憶が蘇ったときに大きく取り乱す葵の性質を考えれば、一ノ瀬の暴行をきっかけに馨との記憶が鮮明に呼び起こされることは大いに有り得る話だ。 だから冬耶は今まで周りから呆れられるぐらい性的な物に触れさせず過保護に葵を育ててきたし、葵に男としての顔を見せることも徹底的に避けてきた。その努力すらも、台無しにされた気分だ。 あんな形で葵が欲望をぶつけられてしまう前に、温かな愛情だけを感じられるスキンシップをとことん教えてあげればよかったかもしれない。自分の手で。 そこまで考えて冬耶はため息をつく。 ──何考えてるんだ、俺は。 ハンドルに顔を乗せ、もう一度、先ほどよりも深く息をついた。

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