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act.7昏迷ノスタルジア<16>

「葵くんに何て言葉を掛ければいいか、全く分からなくて」 黙って先を促してようやく出てきたのは、奈央の素直な戸惑いだった。せっかく淹れたコーヒーに手を付けず、彼は俯いたまま。 「あの倉庫の光景が頭からずっと離れないんだ。どれだけ怖い思いをしたんだろうって。葵くんの顔見たら、耐えられそうにない」 奈央はそう言って肩を震わせた。目頭をそっと押さえてみせたから、きっと今ですら涙を耐えられなかったのだろう。 「先生が退職したところで、それで葵くんの傷が癒えるわけじゃないんだよね」 奈央の言う通り、一ノ瀬を遠ざけても解決する話ではない。葵のことだ。幸樹が先立って肉体的な制裁を加えたと知っても、喜ぶとは思えない。それどころか、自分のせいで幸樹に暴力を振るわせたことを悲しむだろう。 「それなら、これは提出しないでおくか?」 「そういう話じゃない。二度と教壇に立たせない、絶対に」 忍が昨日幸樹から託された退職届をちらつかせれば、奈央は語気に強い怒りを込めた。 単に葵が襲われたことに対してだけではなく、奈央はそれを教師が起こした、ということにも強い憤りを感じているようだった。清廉潔白な奈央らしい。 弱気になりはするが、彼は芯の強い男だ。さっきまでの泣き顔はすっかり引っ込め、背筋をピンと伸ばしてこちらを見据えてきた。 「ねぇ忍。勉強もそうだけど、きっと葵くん、生徒会の活動を休んでいることも心配していると思うんだ」 「確かに、そうだろうな。歓迎会のときもそうだった」 「だから、仕事持って行こう、葵くんに」 一見突拍子もないような話だったが、その意図は十分伝わった。 「あぁ、葵の居場所が変わらずここにあると、安心させてやろう」 忍の解釈は間違いではなかったようだ。根本的な解決には至らない会話だったかもしれないが、それでも奈央の気が少しでも晴れたようで、忍は安堵する。 葵と接し始めて、自分は随分と変わったと忍は思う。 初めは周りをいかに出し抜いて葵を手に入れるかを考えていた。でも今は違う。強引に葵を自分のものにしたいわけではない。ただ葵を幸せにしてやりたい気持ちが日増しに膨らんでいくのだ。 変わったのは、遅れてやってきた櫻もそうだろう。誰かを愛することに不慣れなのはお互い様。忍から見ても、櫻は特に葵への接し方が下手すぎるが、それでも彼が本来持つ優しさが段々と表に出てきた気がする。 「勉強?ばっかじゃないの」 櫻を試験対策の手伝いに誘えば、彼は眉をひそめ、苦言を呈してみせたが、葵のことが心配で堪らないがゆえの発言だ。 ここには居ないものの、幸樹もまた、葵のためにと動いているのは間違いない。 思えば、この生徒会室に今年度の役員が全員揃ったことなど片手で足りるほどしかない。大半は幸樹の不在のせいではあるが、今後は彼もそう簡単に活動をサボることはしないだろう。 一日でも早く、この部屋が葵を中心騒がしくなるときがくることを忍は願った。

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