906 / 1393
act.7昏迷ノスタルジア<18>
「都古くん、おかわりは?」
空になった都古のカップを見て、紗耶香が声を掛けてきた。紗耶香は都古のこともいつだって手放しで迎え入れてくれる。うちの子になればいい、とまで言ってきた陽平もそうだ。
西名家の温かさは都古を時折苦しくさせる。
「アオの、食べるから」
紗耶香の申し出を断り、都古は葵のカップに手を伸ばす。その行動すら見守られるといたたまれない。視線を避けるようにカップの中身をかきこめば、彼女はようやく自分の食事に手をつけ始めた。
「みゃーちゃん、ありがと」
紗耶香の手料理を残してしまうのは葵としても罪悪感があったようだ。空にしたカップを葵の正面に戻してやると、控えめにお礼を囁かれた。
「明日はもう少し食べられるようにがんばるからね」
「無理は、だめ。いつでも、手伝う」
京介には甘やかすなとよく咎められるが、無茶をしがちな主人のフォローは自分の役目だと都古は思っている。それに手放しで甘やかしてくれる葵を、都古だって甘やかしたい。
「……アイス、食べる?あとで」
京介に聞こえぬように葵の耳元で尋ねると、蜂蜜色の瞳に期待の色が灯った。
体の各所に浮かぶ擦り傷や、捻挫の跡が熱を持っているせいか、葵の微熱は下がらないままだ。発熱した葵が冷たくて甘い物を求めがちなのは、出会ってからの一年ですっかり学習していた。
体調の悪いときにアイスばかり食べることを西名家には心配されるようだが、都古はいつも葵の背中を押してきた。
「バニラと、イチゴ」
昼時に冷凍室に残っていた味を伝えると、更に葵の目が輝く。心も体も衰弱している葵の気持ちがこうして少しでも上向きになるなら、それだけで都古はアイスにだって十分栄養があるように思えた。
「おい、何企んでんだお前ら」
「別に。……ね、アオ」
誤魔化してみるが、京介は変わらず疑わしげな目を向けてくる。きっとこの計画に勘付いているに違いない。でも彼はそれ以上追及してはこなかった。卓上の皿を重ね、キッチンのほうへ姿を消してしまう。
「どっちの味にしようかな?」
京介の背中を見送りながら、葵が声をひそめて尋ねてくる。強がって浮かべた笑顔ではない。都古が大好きな、少し茶目っ気のある微笑み。あの夜以降、初めて見た気がする。
「一緒に食べようね」
「うん、共犯」
都古がそう表現すれば、葵の笑みに悪戯っぽさが増す。
葵の混乱も、辛さも、悲しみも、消えたわけではない。消えるはずもない。ああした行為の代償がどれほどのものか、都古自身が誰よりも分かっている。だからこうして笑顔を零せることが出来るのなら、何だってしてやりたいのだ。
都古からすると、こんな時にすら素直に甘やかさずお節介な一面を発揮する京介のほうがどうかしている。そんな心を読んだのかもしれない。キッチン奥から戻ってきた京介が通りすがり、都古だけに聞こえる声量で反論してきた。
「言っとくけど、買い足したの俺だからな」
何を、なんて聞かずとも分かる。それならそうと、普通に渡してやればいいのに。不器用にも程がある愛情表現。
でも都古はふと思う。もしかしたら葵は京介からの贈り物だと気付いているのかもしれない。あの笑顔にはそんな意味もあったのかも。
そこまで考えて、都古はそれ以上勘ぐることはやめた。今から都古が二人の過ごした年月を越すことは叶わない。羨むだけ惨めになる。
都古は深く息を吐き出すと同時に余計な思考を停止させ、ただ目の前の葵だけを愛する猫に戻った。
ともだちにシェアしよう!