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act.7昏迷ノスタルジア<22>
* * * * * *
大学の課題をこなしてきたという冬耶が帰ってきたのは、夕食が終わってから随分と時間が経ったあとだった。
天才肌の兄が机に向かう姿を、葵はほとんど見たことがない。試験期間すら、だ。そんな彼が少し疲れを滲ませて帰ってきたのだから、大学の勉強は高校までとは大きく異なるのかもしれない。
「ごめん、だいぶ待たせちゃったな。眠くない?平気?」
「うん、大丈夫。お昼寝したから。ね、みゃーちゃん」
同意を求めるように隣の都古に視線をやったが、彼は欠伸を繰り返してめいっぱい眠気をアピールしている。その様子に思わず笑みが溢れてしまうのは葵だけではなく、冬耶も同じらしい。
あらかじめ用意していたパジャマを手に取ると、それを合図にして冬耶が葵を抱き上げてくれる。向かう先は一階のバスルーム。支えなしで歩けるようになるまで、入浴には彼が付き添ってくれることになっていた。小さな子どものようで情けなくはあったが、心配だと言われれば素直に甘えることが正解に思える。
怪我を庇いながらの入浴は、昨夜より随分スムーズに出来るようになった。だが傷口が視界に入るたび、あの夜の記憶が自然と蘇ってきて苦しさがこみ上げてくる。
“本当に可愛いよ、葵くん”
上擦った声で名前を囁かれ、そして汗ばんだ指が遠慮なしに肌を這い回る。湧き上がってきたリアルな感覚の全てを洗い流すように、葵は固く目を瞑り、シャワーの水圧を強くした。容赦なく降り注ぐ湯のせいで傷跡がぴりぴりと痛むが、一ノ瀬の指の感覚よりは余程マシだった。
「お兄ちゃん、終わったよ」
危険だから、と濡れた浴室内を片足で移動することは固く禁じられている。だから葵はその言いつけを守り、バスチェアに座ったまま磨りガラスの向こうの兄に声を掛けた。
その一声で、冬耶がすぐに顔を覗かせた。真っ白のバスタオルを広げて近づいてきた彼はそのまま葵の体を丸ごと包み込んでくれる。
「ふふ、くすぐったい」
「こーら、逃げないの。すぐに終わるから」
傷口を擦らないよう、あくまで優しく濡れた肌を拭き取ってくれる仕草に思わず身を捩れば、兄からはやんわりと叱られてしまう。そして捕まえた、とばかりにタオル越しにぎゅっと抱きしめられた。まだじわじわと肌の下をくすぶっていた気持ち悪さは、冬耶の体温でようやく溶けていく。
「よし、じゃあ早く着替えようか」
そんな言葉と共に、体がふわりと宙に浮いた。温厚な雰囲気と派手な服装に隠されているが、冬耶の体つきが随分筋肉質なことは知っている。運動部に入ったことはなく、絵を描くことが趣味なはずなのに、この兄には不思議なことが沢山ある。
逞しい胸元に頬を預けてそんなことを考えていた葵の頭にふと、あの夜の記憶がぼんやりと姿を表してくる。
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