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act.7昏迷ノスタルジア<23>
“あーちゃん!”
胸が張り裂けそうなほど悲しげに自分の名を叫ぶ兄の声。それを聞いた時、確か今のように誰かに抱えられていた気がする。少し刺激の強い香水に混ざって漂っていたのは、おそらく煙草の香り。冬耶は煙草を吸わない、となれば、あれは一ノ瀬だったのだろうか。
「ん、どうした?冷えちゃった?」
一ノ瀬にされたことを連想し、思わず体を震わせた葵に気付き、冬耶は一度下ろしかけた葵の体を再び抱き締め直してくれる。
「体冷えるし、お風呂上がりのアイスはやめておいたほうがいいかな」
「……もう食べちゃった」
「もう?」
都古と立てた秘密の計画は、京介の入浴中にすでに実行済みだ。それを打ち明ければ、冬耶は声を上げて笑った。三日月の形に目を細めるこの表情が、葵は大好きだった。それを陰らせることはしたくない。
だから彼から触れられぬ以上、あの夜のことはなかったことにして、馨のことも知らぬフリを貫くのがきっと正しい。
そう思う反面、きちんと向き合わなければならないと訴える自分もいる。宮岡の手を借りて、ようやく過去の記憶と対峙し始めたのだ。ここでまた逃げることを選びたくはない。
葵がどう切り出そうか悩んでいるあいだにも、冬耶は慣れた手つきでどんどんとパジャマに着替えさせてくれる。おまけに、自分が羽織っていたパーカーまで葵に被せてきた。きっと先ほどの体の震えを、本当に冷えだと受け取ったのだろう。
ふわりと鼻をくすぐるのは、嗅ぎ慣れた兄の香水の匂い。あの夜の記憶に残っているものとは、やはり明らかに違う。
「お兄ちゃん。あの、ね」
今度は葵の髪を乾かす準備を始めた冬耶に声を掛けたはいいが、浮かんだ違和感が何を示すのかが分からず言葉に詰まる。
一ノ瀬から葵を救ってくれたのは冬耶だと聞かされている。それは間違いではないとは思う。けれど、強く刻まれた香りの主がどうしても気になるのだ。一ノ瀬のものだとしたら、自分があの香りを“いい匂い”だと感じているのはおかしい。
「とりあえず、髪乾かしちゃおう。それから話そうか」
「……うん、わかった」
冬耶の提案に素直に頷くと、褒めるようにぽんと頭を撫でられた。
ドライヤーのスイッチが入り、温い風が葵の頬をかすめていく。前はあれほど嫌だったこの時間。けれど、鏡に映った自分は大きな手に髪を梳かれて心地よさそうな表情を浮かべていた。それに気付いて、葵は慌てて兄へと視線をずらした。鏡で自分を直視するのはまだ少し苦手なのだ。
鏡越しに視線が絡むと、冬耶は全て見透かしたようににっこりと微笑み返してくれる。シルバーに染められた髪色と無数のピアスのせいで、初対面の人は大抵冬耶を“恐い人”と勘違いする。けれど、いつもこうしてニコニコと笑っているからか、あっという間に誰とでも仲良くなってしまう。
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