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act.7昏迷ノスタルジア<24>

“あーちゃんもほら、笑ってごらん。ニーッて” 泣いてばかりの葵に、冬耶は根気よく笑い方を教えてくれた。時には頬をむにむにといじられたり、くすぐられたりと少し強引な手段を使われることはあったが、おかげで毎日沢山笑えるようになった。 自分のそんな変化を葵は前向きに受け入れ、感謝していたはずだった。けれど、馨の存在がちらついた途端、不安が襲ってくる。葵の今の笑い方を、きっと馨は気に入らない。 「さて、と。お兄ちゃんの部屋行こっか」 「あ……うん」 いつのまにかドライヤーの風音は止まっていた。思わず頷いてしまったが、正直なところこれから何を話すのか、をまだ考えあぐねている。冬耶に抱き上げられ、葵は慌てて思考を巡らせた。 一ノ瀬のこと。馨からの贈り物のこと。それから……。 歓迎会の朝に届いた手紙に始まり、連休中何度か出会った男性のこと。一度冬耶に打ち明けかけたものの、結局触れずにいた存在だ。葵の心の準備ができるまで見逃してくれているだけで、冬耶はきっとあの時の葵の様子を覚えているに違いない。 冬耶の部屋は様々な雑貨で溢れているが、ベッド周りが特に賑やかだ。悪い夢を捕まえる魔除けのグッズが手作りの天蓋から大量にぶら下がっている。だからこのベッドの中心が一番安全だと、教えてもらったことがあった。怖い夢をみたらいつでもここに逃げ込んでおいで、と。 冬耶は葵を抱えたまま、色とりどりのクッションが積み重なった山に背を預ける形で寝転がった。 「話したいこといっぱいあるのに。どう話したらいいか、難しい」 悪夢の襲ってこない場所で、大好きな兄に包まれている。これ以上ないほど安心できるシチュエーションを用意してもらったのに、やはり言葉がうまく出てこない。 「そうだな。じゃあ、さっきあーちゃんが言い掛けた話からする?」 「あぁ、あれは、うん。その……お兄ちゃんは話したのかなって」 「誰と?」 不確かな香りの記憶を追求することこそ困難だ。だから葵は冬耶の問いに、“先生”と答えた。 「どうして、あんなことになったんだろって」 昨夜同じ質問を京介と都古に投げかけた時には明確な答えはもらえなかった。それはきっと彼らが一ノ瀬と対峙していなかったからだろう。冬耶ならあの一件の要因を直接聞いているかもしれない。

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