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act.7昏迷ノスタルジア<25>

「そうだな。分からないままなのは余計に混乱するよな。でも、うーん、なんて説明しようかな」 冬耶は葵の視線を受けて、少し困った顔をしてみせた。けれど、適当にはぐらかすことはしない。 「あの人はね、ずっと妄想に囚われてたんだ」 「妄想?」 「そう。その妄想の相手の容姿が、あーちゃんによく似ていた。だから段々と妄想と現実の区別がつかなくなっちゃったんだよ。……って、ちょっと難しいかな?」 冬耶の説明は抽象的で理解しがたいことではあるが、どことなく納得感はあった。一ノ瀬は時折、葵自身に全く覚えのない趣向や発言を口にしてきた。一ノ瀬にあんな風に触れられることを、葵が喜んで受け入れると思い込んでいるようなことも言ってきた。葵の向こう側に誰かを見出していたのかもしれない。 葵自身にも似たような現象に心当たりはある。母親から虐げられていた思い出と、愛された思い出。その大きな隔たりにずっと混乱してきたけれど、宮岡とのカウンセリングを通してはっきりと自覚することができた。母親と幸せな時間など過ごしたことがなかった。葵が作り出した“妄想”と表現されてもおかしくない。 一ノ瀬も何かに苦しんできたのだろうか。 「じゃあ、僕が先生に何かしちゃったわけじゃない?」 「もちろんだよ。あーちゃんは何にも悪くない」 一ノ瀬があの行為を“お仕置き”と表したから不安で仕方なかったが、冬耶がはっきりと言い切ったおかげでようやく心が軽くなった。 「先生、次会ったらまた間違えちゃうかな。僕の見た目が変われば平気?」 「次なんてないよ。あーちゃんはもう二度と、あいつには会わないから大丈夫」 “二度と”と強く表現されたことと、“あいつ”に変化した一ノ瀬の呼称が気になり、葵は思わず冬耶を見上げた。けれど予想に反して、そこには変わらず朗らかな兄の笑顔があった。 「あの人は妄想から抜け出せなくなっちゃったからね。これから治療に専念するんだよ」 「治療……。先生は病気になっちゃったの?」 「そうだな。長く入院することになるだろうな」 「そう、なんだ。良くなるといいね」 葵は宮岡の手助けを借りて自分の心と向き合い始めた。彼とのお喋りは楽しいけれど、時に辛い記憶と正面から対峙しなければならない。その瞬間は胸が張り裂けそうなほど苦しくなって、呼吸すらままならないこともある。その度に優しく背中を撫で、抱き締めてくれる宮岡の温かな手がなければきっと乗り越えられていないだろう。 支えとなってくれる医師と出会えたらいい。心の病が快方に向かえばいい。そう思うのは葵の素直な本心だ。 けれど、葵がその願いを口にした瞬間、今まで笑顔だった冬耶が泣きそうに顔を歪めてしまう。葵の体に回された腕にも力が込められた。

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