914 / 1393

act.7昏迷ノスタルジア<26>

「あーちゃん、我慢しないで。あんな酷いことをされたんだ。恨んでもいい。怒ってもいいんだよ。ちゃんと吐き出して。お兄ちゃんが全部受け止めるから」 まるで懇願のようだった。一ノ瀬とのことはこれで終わり。葵はそれで構わないと思ったのに、止められるとは思わなかった。 「自覚できてないだけで、きっとまたここの傷を無理に塞ごうとしてる。それじゃダメなんだよ」 ここ、と言って、冬耶は葵の胸をトンと突いてくる。無理をしているつもりはないが、兄が言うのならばそうなのかもしれない。いくら病気による暴走だったと言われても、あの時の恐怖が薄まるわけではないことは確かだ。 「でも、許してもらえないのってつらいよ」 葵は身をもって知っている。ずっと“許されたい”と願ってきた側だからだ。 「我慢なんてしてないから。大丈夫だよ、お兄ちゃん」 葵よりも辛そうな冬耶を慰めたくて、彼の髪に触れてみる。何度も脱色を繰り返した髪は、少しぱさついていて硬い。彼に抱きしめられてこの髪が頬に当たるとくすぐったくて、葵はいつも笑顔になってしまう。 でも葵とは対照的に、冬耶の表情はますます崩れていく。そしてそれを隠すように、またきつく抱きすくめられた。彼の髪が葵の首筋をくすぐってくる。 「あーちゃん、旅行いく?」 「え、旅行?どうしたの?」 あまりにも唐突な提案だ。冬耶の意図を探ろうとするが、彼は葵の肩口に顔を埋めてしまって表情が全く見えない。 「エッフェル塔のぼりに行こう。きっと綺麗な景色が見られるよ。それでさ、シャンゼリゼ通りでお買い物しよう。好きなものなんでも買ってあげる。美味しいフレンチトーストとマカロンも食べよう」 有名な観光地の名前で、葵は旅の目的を知る。高校卒業と共に旅立った大好きな人が暮らす街。彼がくれたフォトカードにも、その綺麗な風景が映されていた。 「遥さんに会いに行くの?」 「そ。で、あーちゃんにもう一度、遥と二人で言うんだ。我慢しないでって。お兄ちゃんだけじゃ足りないみたいだから」 彼らに挟まれて甘やかされるあの空間では、葵の嘘も強がりも意地も何も通用しない。何度も経験して、無駄な抵抗だと教え込まれた。いくら鍵を掛けても、奥に仕舞っても、隠したはずの葵の本音がするすると溢れ出てしまうのだ。 今もこうして冬耶に誘導されただけで、涙腺が緩んでくる。

ともだちにシェアしよう!