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act.7昏迷ノスタルジア<45>

* * * * * * フェンスの奥に広がる芝生の上で、まだ歩行もおぼつかない幼児たちと職員が戯れている姿が見える。今の時間、学校に通う年齢の子供たちはまだ帰ってきていないようだ。 門に近づくと、すぐに職員の一人がやってくる。怪訝そうに眉をひそめられるのも無理はない。椿がここで過ごしていたのは数年前の話。目の前の女性に見覚えはないし、何より椿は今、濃い色のサングラスをかけたまま。不審がられるのは覚悟していた。 「久美子さんと約束してるんだけど」 この施設を取り仕切る人物の名を口にすると、訝しそうにはされながらも門の施錠が解かれた。通された外来用のスペースでしばらく待っていると、廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえてくる。 「椿くん!!」 「廊下は走るなっていつも言ってなかったっけ?」 椿の返した嫌味なんて全く気にも留めず、久美子は廊下からの勢いをそのままに近づいてきた。そして躊躇いなく椿を抱き締めてくる。エプロンに包まれた体はふっくらと温かい。 「ちょっと、苦しい」 椿の肩ほどしか身長がないというのに、日頃沢山の子供の相手をしているからか、巻き付いてくる腕は力強い。けれど強引に引き剥がすことはしない。彼女がどれほど椿を心配していたかを、一応は理解しているつもりだからだ。 「おかえりなさい、椿くん」 いつでも自分の家だと思って帰ってきていい。椿を送り出した日の約束を、久美子はきちんと守ろうとしてくれる。だが、椿はこの施設に預けられた日からずっと“ただいま”を言えずにいた。ここを自分の家だと認めたくはないからだ。今もそう。 幼い頃からちっとも変わらず意地を張り続ける椿にはもうすっかり慣れきっているのか、久美子が気を悪くする様子はない。 案内されたのは長机とパイプ椅子が置かれただけの簡素な空間。どんなものでも玩具にする子供たちがここで生活しているせいか、所々塗装が禿げたり、欠けたりしてしまっている。 でも藤沢家の邸宅やオフィスにあるやたらと高級で柔らかなソファよりも、ペタンコのパイプ椅子のほうが椿にとっては不思議と座り心地がよい。 「なーに、そのサングラスは。それにその服。どうしちゃったの?」 「別に、普通でしょ」 椿をもてなすためにお茶を汲んできた久美子は、正面に座るなり早速椿の格好をいじってくる。藤沢家に出入りするならば、と誂えられたスーツは、ファッションには明らかに疎そうな久美子でも質の良い物だとは分かるのだろう。

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