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act.7昏迷ノスタルジア<48>

「母親は違うけど、正真正銘、俺の弟だよ。ここで会えた時はさすがに神の存在を信じたくなったね」 母を亡くし、親戚中からも拒絶されたのちにやってきたこの場所で、椿は深い絶望を抱えていた。そんな時に葵が現れたのだ。 兄弟が欲しいとごねた椿に、母が教えてくれた弟の存在。会うことは出来ないと前置きされた上で見せられた写真に映っていたのは、まるで少女のような格好をした葵だった。独特の髪色も瞳も、一度見たら忘れるわけがない。だから職員に連れられてやって来た葵を見て、すぐに弟だと分かった。 「まぁ、俺はまた“嘘つき”って笑われたけどね。それでも良かった。ずっと葵に会いたかったから」 当時の久美子は椿の発言を馬鹿にはしなかったが、幼い子供同士の微笑ましい“兄弟ごっこ”と認識していた。そんな自分の態度が椿を傷付けていたことにようやく気が付いたのか、普段は血色の良い彼女の顔色に陰りが見え始めた。 「ちなみに、葵と“兄弟ごっこ”してるのがそいつね。葵の“お兄ちゃん”なんだってさ。ウケるよね、ほんと」 机に置かれたままのメモ用紙を指さして冬耶の正体を告げてもなお、久美子は何の言葉も発せられずにいた。 「そういえばあの日久美子さんが俺と葵を引き離して、そいつらに渡したんだったね。忘れたなんて言わせないよ。俺は毎日夢に見るんだから」 自分でも驚くほど恨みの込もった声が出る。 久美子にはそれなりに感謝しているし、たまに掛かってくる電話も気が向けば相手をするぐらいには親しみを感じていたつもりだった。けれど、心の奥底では黒い感情が募り続けていたのだろう。 「……ごめんなさい、椿くん。あなたの気持ちをないがしろにしてしまっていたのね」 椿の望み通り、葵を施設に置き続け、兄弟を共に暮らさせるなんてことは久美子の立場で実現できたわけがない。彼女に怒りをぶつけるのは、さすがにただの八つ当たりであることも分かっている。けれど、肩を落としながら謝罪を口にする久美子の姿を見ても、ちっとも気持ちは収まらなかった。 「そいつさ、きっと俺に身を引けって言いに来たんだよ。葵の兄だって名乗ることも、葵の前に現れるのもやめろってね。どう思う、久美子さん?俺にまた“仕方がない”って諦めさせるの?」 椿の問い掛けに、久美子は何も答えなかった。答えられなかったというほうが正しいかもしれない。幼い頃も向けられた哀れむような目線だけを、彼女は送ってくる。 「だから、それは要らない。捨てといて」 冬耶の願いを叶えるつもりはないと宣言し、椿は席を立った。 「じゃあ元気でね、久美子さん」 その言葉から、椿がもう二度と久美子と連絡を取ることも、ここに現れることもない意志を感じたのだろう。背を向けると、彼女が小さく鼻を啜る音がした。

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