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act.7昏迷ノスタルジア<53>

* * * * * * 講義の合間にかかってきた電話の相手は、昨日訪れた児童養護施設の女性だった。狙い通り椿に冬耶の訪問が伝わったようだったが、彼は接触を拒んだのだという。 西名家に対して良い印象を持っていないことは宮岡から聞いて覚悟はしていたものの、直接会話をすれば分かり合えるかもしれない。そう思っていたのだが、恨みは相当に深いらしい。 昨日幸樹と別れてからの冬耶は、宮岡からもらった情報をもとに、椿が施設を出た後勤めた職場をひたすら辿っていた。だが、どの仕事もあまり長続きはしなかったようで、今の椿と連絡を取れる人物は、施設長を除き一人も見つからなかった。 椿のかつての同僚たちは皆、彼が金を稼ぐことに貪欲だったと揃って口にした。椿が選んだ仕事のほとんどが、所謂夜の世界に携わるものだったのは、そのためだろう。 椿は人付き合いが極端に悪かったらしい。だからなぜそこまで金を必要しているのか、その理由を知る者は誰もいなかったが、先ほどの電話で理解ができた。 “弟を迎えに行くんだって、あの子ずっと言ってたのよ” 誰にも心を開くことのなかった椿は、葵がやってきてから大きな変化をみせたらしい。周囲はおままごとだと認識していたようだが、葵を“弟”として可愛がることで、いつもしかめっ面をしていた椿が笑うようになったのだという。 引き離されてもなお、葵と暮らすことだけを目標に生きていたと知れば、冬耶には椿を退ける選択が正解だとはとても思えなかった。 悪戯に接触し、葵を泣かせたことは分かっている。西名家に対しての不信感を植え付けたことを許せるわけでもない。それでも、彼は彼なりに葵を愛している。 ──あーちゃん、覚えてないんだろうな。 施設にいた頃の葵は、おそらく一番弱っていたと言っても過言ではない。だからなのか、施設での滞在そのものの記憶が葵の口から出たことは一度もなかった。 信頼しきっていたが故に、別れのショックで記憶を封じ込めてしまった穂高とは違う。そもそも椿のことを認識していたのかも怪しい。 それを椿が知ったらどうなるのだろう。否、知ってしまったから葵を傷つける振る舞いしか出来ないのだろうか。 「西名、何やってんの。もう終わったよ」 また一つ増えた悩みに頭を抱えていると、不意に声を掛けられた。顔を上げると、そこにはさっきまで共に講義を受けていた友人の姿があった。電話のために一瞬抜けるつもりが、結局講義に戻れなかったようだ。チャイムが鳴ったことにも気付けなかった。

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