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act.7昏迷ノスタルジア<55>

冬耶がドアを開けて外に出れば、彼は被っていたハンチング帽を恭しく脱いで頭を下げてきた。その行動一つとっても冬耶の神経を逆撫でる。 「何かご用ですか」 「いやぁ、さっき桐宮に顔出してみたんですけど、あそこの警備厳しくてね。さすが坊っちゃん方が通う学校だ。その点、大学っていうのは自由でいい」 「ここも、関係者以外は立ち入り禁止のはずですが」 冬耶が当たり前のことを指摘すれば、彼も当然心得ていたのかおどけるように肩をすくめてみせた。 「今日はね、お兄さんと取引がしたくてきたんですよ」 「……取引?応じる気はありませんが」 「まぁそう言わず。とりあえず聞いてくださいよ」 強い意志を示しても、冬耶の反応は想定内だったのか、男は薄ら笑いを浮かべたまま引く気配を見せない。 「あの子から当時の話を少し聞かせてもらうだけでいい。そうしたらもうこんな風には追いかけませんよ」 「一度記事にされれば、それ以降普段通りの生活ができないことぐらい想像できます。そんなリスクを負えるはずがありませんし、そもそも話す義理もありません」 十年前の話とはいえ、今は馨が藤沢グループの社長に就任したばかりのタイミングでもある。母の死に立ち会った息子のエピソードを交えて、藤沢家のスキャンダルを記事にされれば当然話題になるに違いない。 「それなら、お兄さんが選んでくださいよ」 男は訝しげな冬耶の視線に答えるように、胸ポケットから三枚の写真を取り出し、そして真っ赤なボンネットへ丁寧に並べていく。どれも盗み撮りしたもののようで、写っている人物はいずれも正面を向いてはいない。でも冬耶は全員をよく知っている。 一枚目はパジャマのまま西名家の玄関先に出ている葵。様子からして昨日撮られたもののようだ。次は校門にもたれかかり欠伸をしている浴衣姿の都古。そして最後はステージのような場所でスポットライトを浴びる櫻。 「あの子を追ってたら面白い子達を見つけましてね。烏山家の三男と、月島家の長男。お兄さんも、ご存知でしょう?」 葵を取り囲む人物たちの中で選ばれた二人。それが意味することを、冬耶は当然理解ができた。 彼は芸能人のゴシップを嗅ぎ回る週刊誌の記者だと名乗った。だからアーティストとしても活動している馨や、その妻で今は亡き女優エレナのことを追っているのだとも言っていた。 一方で、都古は芸能一家、櫻は音楽活動を生業とする家の生まれだ。彼のターゲットになりうるのだと、そう主張したいのだろう。 家族から施された虐待により家と絶縁をした都古と、婚外子として生まれたにも関わらず後継としての運命を背負った櫻。目の前の男がどこまで事実を把握しているのかは分からないが、少なからず記事のネタになりそうな事があったのだとは確信しているに違いない。 彼の望む葵との接触を断れば、代わりに都古や櫻をターゲットにする。彼のいう一方的な“取引”の正体が把握できた。 葵のことが何よりも一番大事だ。それは変わらない。けれど、だからといって、都古や櫻を晒し者にし、苦しめるような決断など出来るはずもない。

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