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act.7昏迷ノスタルジア<56>

「誰も傷付けさせない。あなたが引くつもりがないのなら、今ここで二度と文字を書けないようにしてやってもいい」 卑怯な取引を持ちかけてきた男にこれ以上取り繕うこともない。冬耶は男の胸ぐらを掴み、己へとゆっくり引き寄せた。 「選ぶのは俺じゃない。……どうする?」 ただの脅しではない。葵が誇れる兄であり続けるために極力穏便に事を済ませたいとは思っているが、必要があれば自らの手を汚す覚悟はできている。 細かい皺の浮いたシャツを更に強く握りしめて睨みつければ、今まで余裕ぶった態度をとり続けていた男の顔にようやく焦りが滲んだ。冬耶が本気であることは伝わったようだ。降参するように両手を上げる仕草で、シャツからは手を離してやる。 「まぁ、あんたに釘刺されるまでもなく、そう簡単に記事が出せるなんて思っちゃいないよ。相手が相手だ。世間に出すとこまで漕ぎ着けたって、揉み消されて終わりになる可能性は高いしな」 冬耶につられたのか、男も小汚い風貌に似合わぬ言葉遣いをやめた。掴まれた跡の残る衣服を整えながら愚痴をこぼす姿は、冬耶が本気で潰しに掛かるまでもないと思わせる情けなさがある。 「それに正直なところ、今あるネタだけで触りの記事ぐらいは書くことができる。あんたに断りを入れなくても、な」 「俺のとこに来たのは別の目的もあった、と?」 「目的っつーほど大層なもんじゃねぇが。あんたへのちょっとした腹いせ、かね」 まるで冬耶にも非があるような言い方は聞き逃せない。 「藤沢家の様子を伺うのが俺のルーティンになっててな。あの日も、カメラ構えて張ってたんだよ。だからいい絵が撮れた」 ヒントを与えられてようやく冬耶も記憶が蘇ってきた。 葵の母が亡くなった日。隣家から聞こえる物音に気がついた冬耶は迷わず家を飛び出した。エレナはちょうど家から運び出されるところで、葵は穂高の腕に抱かれ真っ青な顔でただ震えていたのが見えた。他にも何人かの大人の姿もあったと思う。 そして、敷地の外には確かにもう一人存在していた。エレナや葵にカメラを向けて必死にシャッターを切る人物。それが今冬耶の目の前にいる男だったのだろう。 「カメラはまだ替えがきくからいいが、フィルムまでめちゃくちゃにしやがったもんな」 当時の冬耶には、彼がああした事件をネタに稼いでいることなど知る由もなかったが、人としての一線を超えた行為だとは幼心にも理解できた。だから冬耶はレンズを覗くことに夢中になっていた男の背後から近付いてカメラを取り上げると、彼の言う通りがむしゃらに破壊してやったのだった。

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