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act.7昏迷ノスタルジア<70>

西名家で絵本を読むだけの生活を送っていた葵に、登校するよう強く促したのは遥。彼の誘いや、京介、冬耶の後押しを受けて挑戦はしてみたものの、当然のように授業についていくことなど出来なかった。 陽平や紗耶香からは、読み書きや簡単な算数を家庭で教わり始めていたが、そんな内容は皆、初等部入学前にとっくに終わっている。知らない言葉で溢れる教室は、葵にとっては大袈裟などではなく異世界そのものだった。 だから都古の今の姿は数年前の自分と重なり、痛いほど共感してしまうのだ。家族や遥がずっと葵の手を離さずに居てくれたように、葵も決して彼の手を離すつもりはない。 「ほんと、すげぇ頑張ったよな」 長い間傍で葵を見守ってくれていた京介から感慨深そうに褒められると、くすぐったい気持ちに胸が満たされる。 「学校に行けば京ちゃんとずっと一緒に居られるって、遥さんが教えてくれたから。だから頑張れたんだよ」 「……なんだそれ、あぁ……クソッ」 葵の原動力を京介に伝えると、なぜか彼は何かを堪えるように眉をひそめて髪をかき乱し始めた。葵がその仕草に驚いて理由を尋ねる前に、立ち上がった京介がこちらに近付いてくる。心なしか、頬が赤い気がした。 「京ちゃん?」 「葵、このぐらいは許して」 そんな宣言と共に、彼の腕が葵の体を包み込んだ。こうして京介から強く抱き締められるのは随分と久しぶりな気がする。ほんのりと漂う煙草の匂いにも、懐かしさすら感じてしまう。だから葵からも彼の背に手を回し、より距離を縮めてみせた。 「絶対今じゃないんだよな」 「どういうこと?」 「どうせあいつすぐ帰ってくんだろ。あー、邪魔されたくねぇ。風呂でのぼせねぇかな」 京介の言う“あいつ”が都古を指すことぐらいは分かる。この時間を出来るだけ長く過ごしたがっているのだと思うと、不吉なことを願う京介を無闇には咎められない。葵も、もう少し勉強を休憩して、京介に抱き締められていたい。 それに、京介には伝えたいことがあった。今がチャンスに違いない。 「……京ちゃん、大好き」 頭の中では何度もシミュレーションしていたはずだった。 あの夜、悪夢でうなされていた葵に差し伸べられた手を拒んでしまったことを謝りたい。一ノ瀬の行為と“おまじない”の何が違うのか、怖くなったのだと説明したかった。そして、葵の気持ち次第で変わるのだと宮岡に教えてもらったことも話そうと思っていた。 でもいざ京介の腕の中に収まると、全て飛んでしまった。ただ率直な彼への気持ちが溢れてくる。

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