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act.7昏迷ノスタルジア<76>

「一ノ瀬に、会った?」 都古はそれ以上自身についての話題を掘り下げることを避け、冬耶に確かめたかったことを尋ねた。 葵には大学に行くなんて言って出掛けていくが、彼のことだからきっと葵のために動き回っているに違いない。葵を直接的に傷付けた一ノ瀬を野放しにしているはずもないだろう。 だが、都古の予想に反し、冬耶は首を横に振ってみせた。 「今はまだ、な。うっかりぶち殺しちゃいそうだから」 いつもの朗らかな笑顔で、不穏な単語を口にする。都古もその殺意には共感するものの、さすがに笑いながら言われると戸惑いは否めない。 普段の温厚な態度のせいでつい忘れそうになるが、都古の知る中では怒らせたら最も危険な人物が冬耶だ。 都古をあの地獄のような家から連れ出しに来た時も、彼はひどく怒っていた。都古に覆いかぶさっていた父親が、冬耶に殴られて面白いぐらいに跳ね飛んでいったことも覚えている。都古にとって圧倒的な強者だった存在が、一気に滑稽な物体へと変わった瞬間だ。 都古のことですら、遥と京介が二人がかりで説得し、宥めてもなかなか落ち着かなかったほど怒り狂っていたのだ。彼が何よりも愛する葵を傷つけた存在を目の前にしたら、殺意に身を任せそうだというのも大袈裟ではないのだろう。 「捕まえては、いる?」 「あぁ、その辺は任せて」 冬耶は都古に深く説明する気はないのだろう。一ノ瀬の現状を問えば、あっさりと受け流されてしまった。都古もまた、一ノ瀬の居場所を知ったら何をしでかすか分からないと冬耶に警戒されているからに違いない。 想定以上に冬耶とのお喋りに時間を費やしてしまった。 そろそろ葵の元に戻りたくなった都古に、冬耶はこれで最後、と前置きして、週末の計画を教えてくれた。この家に皆を招いて、葵のことを打ち明けるのだという。そしてそのあいだ葵を別室に待機させる作戦も。 色々と不満はある策だったが、既に決定事項としている冬耶相手に文句を言っても無意味なことはわかっている。 書斎を出て真っ直ぐに向かう先は当然葵の部屋。 試験勉強が遅れていると焦っていたから、きっと今頃必死に机に向かっているはずだ。都古が何をしてやれるわけでもないが、先ほどの冬耶の話を受け、自分も隣で教科書を読むぐらいはしようと思った。 だから、葵の部屋の扉を開けて現れた光景が思い描いていたものと大きく異なっていて、驚かされる。 葵は椅子には座っているものの、机のほうを向いてはいない。隣に立つ京介のシャツを掴んだまま、とろんとした目で瞬きを繰り返していた。 机の上のノートやペンが押しのけられている跡を見れば、さっきまでそこに葵が座らされていただろうことは容易に想像がついた。何をしていたのかも。

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