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act.7昏迷ノスタルジア<80>

「エレナのように、葵を傷つけたりもしなかったよ?むしろ大切に守ってきたはずだ」 「馨様の人形、として」 「そう、その通り」 馨が肉体的に葵を虐待することはなかった。それも傍にいた穂高はよく知っている。むしろエレナが付けた傷を見つけては憤っていたし、それが原因でよく言い争ってもいた。でも葵の精神を破壊したのは馨だ。可愛い人形としての葵しか、馨は求めていない。 「葵ともう一度暮らしたい。それを私が願うのはいけないことかな?」 「いいえ」 願うこと自体を穂高に咎める権利はない。己の信条や、葵への想いを封じながら、馨を満足させる答えを紡ぐことも造作のないこと。穂高はただ淡々と質問に答えていく。 「それなら、穂高のやるべきことはなんだろう?一日でも早く葵を取り戻す方法を考えなくちゃ、ね?」 「旦那様のご判断次第です。今はかなりお怒りのご様子ですから、一度お坊ちゃまへの接触を断つことが近道だと存じます」 「違う。もっと他にあるはずだ。葵からこちらに来ればいい。それが思いつかないほど、穂高は馬鹿じゃない。それに何度も言ってきたよね、私は」 馨が伸ばした手は真っ直ぐに穂高の顎に添えられた。強制的に真正面から目を合わさせられる。言い聞かすような仕草は、馨が相手を意のままに操りたい時のもの。幼い葵にもよくそうして洗脳していた。 「葵が私を追いかけてきた姿、穂高も見たでしょう?あの子が求めているのは私だ」 車のミラー越しにではあるが、懸命にこちらに手を伸ばしてきた葵の姿は思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。馨の言葉を否定できないのが何よりも辛い。 「もうあの人の言うことを聞くのは飽きたよ。藤沢の家になんてはなから興味もない。葵を連れて逃げてしまおうかな?」 「もし馨様がそのような行動をとった場合、旦那様は地の果てでも追いかけると仰っています」 当主が全力をあげて捜索するとなれば、正直なところ馨に勝ち目はないはずだ。 元々自由に好きなことを過ごしていた馨のこと。芸術性に対する支援者は多いものの、後継としての器を疑問視する声は絶えず聞こえてくる。そんな馨が家の後ろ盾を失くせば、味方につくものはいない。皆、藤沢グループを敵に回すことだけは避けたいからだ。 それを馨も自覚している。だから今まで極端な行動には出ていないのだ。狂人ではあるが、そうした冷静さは持ち合わせている。だからこそ厄介とも言えるのだが。 「その時は穂高も一緒に連れていくよ。心配しなくていい。二人で葵を可愛がってあげよう」 まるで穂高の忠告などなかったかのように、馨は甘い誘いを続けてみせる。“可愛がる”、その言葉に淫靡な意味合いが込められていることを感じて、苦いものが込み上げてきた。

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