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act.7昏迷ノスタルジア<82>
「宮岡くんとはこれからも仲良くしてもいいよ。私は穂高の唯一のお友達を奪う真似をするような、そんな非情な人間じゃない」
穂高の纏う空気の変化に気がついたのか、馨が不意に話題を変えてきた。それも、葵を守るため穂高と共に動いてくれている友人の話。
言葉ではそういうが、馨が宮岡の存在を面白く思っていないことは明らかだ。宮岡のカウンセリングにより葵の精神が安定してしまえば、馨の元に自ら戻ってくる可能性が低くなる。
「彼が何を企もうが、私にとっては些細なこと。だから目を瞑ってあげる。このゲームをどう盛り上げてくれるか興味もあるしね」
馨のこの余裕のあるポーズは、決して虚勢ではない。本当に楽しんでもいるのだろう。穂高の反抗も、宮岡の画策も、馨にとっては取るに足らない余興。
「けどね、穂高。くれぐれも、可愛くないことはしないようにね。返事は?」
「……かしこまりました」
曖昧だが、絶対的な忠告だった。彼の言う“可愛くないこと”の範囲は穂高の判断に任せるつもりのようだ。
馨は最後にもう一度穂高の顎を掴んで視線を合わせると、満足したように部屋を出て行った。
葵への忠誠心を単なる性欲と混同された屈辱は、穂高の胸にべったりとこびりついて離れない。主が居なくとも部屋中に漂う甘い香りもまた、穂高の気分を悪くさせた。
とにかくまずは部屋を片付けなくては。こんな時でさえ感情を抑え、使用人としての顔を取り戻せる自分にもほとほと嫌になる。
“ほだか。ずっと、いてね”
苦しい時に思い浮かべるのは決まって、幼い日の葵の記憶。ベッドに横たわらせ布団を被せるといつもそうしてお願いをされていた。だから穂高も小さな手を握って誓うのだ。ずっと傍にいる、と。
穂高の返事を待ってようやく葵は安心したように目を瞑る。その仕草を愛しい以外の言葉では言い表せない。あの時の穂高は、本当に一生をかけて葵の傍にいるつもりでいた。
“なんで?ほだか、いかないで”
今でも耳に残るのは別れの日の葵の声。何よりも信頼を寄せていた穂高にまで裏切られて絶望し、非難の声を上げ、そして最後には懇願してきた小さな主人。
葵を傷付けたのは両親の存在だけではない。穂高も同罪だ。
だから馨の忠実な僕という屈辱的な立場も甘んじて受け入れる。馨を止めるためならば最終的にはどんな手を使う覚悟も出来ていた。友人の想いを利用することすら、葵への贖罪のためならば厭わない。
もしも葵が穂高のことを思い出し、現状を知ったならば、きっと喜んでくれると宮岡は言う。けれど、穂高はそうは思わない。
理不尽なことで叱られる葵を庇ってやるために、馨やエレナの怒りを代わりに受けたことは一度や二度の話ではない。使用人のくせに雇い主に楯突いたという言い分で、言葉で詰られるだけでなく体罰も当然のように受けてきた。
穂高はその事自体、何の悔いもなかったが、葵は違った。自分が叱られた時以上に悲しんで泣きじゃくるのだ。もう庇わないでと、穂高を宥めさえしてきた。
そんな葵だから、今の穂高の姿を見ても喜ぶはずもない。
だから思い出さなくていい。全て忘れたままでいてほしい。もうどんな理由であれ、葵を悲しませたくない。
宮岡を通じて受け取った、葵からの贈り物。黄色の金平糖はあれから常にスーツに忍ばせている。口に出せぬ想いを託すように、穂高はポケットに手を当て、深く息を吐き出した。
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