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act.7昏迷ノスタルジア<84>
「そういや葵がされたこと、聞いてないっけ?」
決定的な行為まではされずに済んだ。それが都古にとってどれほど救いになるのかは分からないが、もし知らなければ伝えてやろう。そう考えた京介に、都古は静かに首を横に振って答えた。
「冬耶さん、から」
「あ、そ。聞いてんならいい」
さすがにあのお節介な兄が都古を気に掛けない訳もない。自分が気を回すまでもなかったと知り、京介は都古から視線を外した。だが思いがけず、今度は都古から会話を続ける素振りをみせてくる。
「確認、するだけ?」
葵の望む通り、怪我の治療を手伝ってやる。そのついでに葵の今の体の状態を確認する。ただそれだけの目的ならば手を貸してやらないでもない。相変わらず表情は読みにくいが、そのぐらいの意図は伝わってくる。
「まぁな。葵が何にビビってんのか知りてぇけど、無理に聞き出すつもりはねぇから」
「……ほんとに?」
どうやら日頃の態度が都古に疑いを抱かせているらしい。葵が暴行を受けた翌日ですら、一ノ瀬についていったことを責めるような言葉を掛けた前科もある。あの時も都古にとてつもない睨みをきかされ、怒鳴られた。
「だから、お前が止めろよ。一ノ瀬の付けた跡見て冷静でいられる自信もねぇし」
「なにそれ」
もう一度、都古が呆れを込めた台詞を口にした。
葵が都古を仲間はずれにできなかっただけではない。京介も彼を疎ましくは思いつつも、ブレーキ役として必要だと感じていた。
無関係な寮監相手にさえ暴れ狂った姿は見ているが、都古が葵に直接怒りをぶつけることはまず無いだろう。だから二人揃って理性を失うことはない。そう思ったのだが、予想に反し、都古の瞳には、あの夜の怒りを滲ませた色が浮かぶ。
「噛み千切る、かも」
「おい馬鹿、ぜってぇやめろよ」
「……わかってる。しない」
恐ろしいことを言う都古を非難すれば、彼はそっぽを向いてしまう。本気で実行するとはさすがに思わないが、そんな願望を口にするぐらいには都古にも耐え難いことなのだろう。
葵はきっとただ純粋に自分たちを信じて、身を任せようとしてくれる。それを裏切りたいわけではない。葵の抱える恐怖を少しでも和らげてやる方法を探りたいだけだ。
葵と交わしたキスの余韻はまだ残っている。昂ぶったままでは本当に理性が飛びかねない。それを避けるために己の手で一度欲を吐き出してはきたが、葵の肌に触れたらすぐに蘇ってくることぐらい予想がつく。
どうしたら葵にこの想いが通じるのか。長い時間掛けてもその答えの糸口さえ見つからなくて、苦しさばかりが募っていく。
“京ちゃん、大好き”
幼い感情なのは分かっている。それでも少し前に葵から囁かれた言葉がまだ耳に甘く残っていた。
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