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act.7昏迷ノスタルジア<86>
いつも通り兄に髪を乾かしてもらったあと向かう先は、リビングルーム。今夜は宮岡からのお土産のプリンを一緒に食べる約束をしていたのだ。
一つだけ余っていたプリンが誰のものかは、夕食後に行ったじゃんけんで決定済み。勝者は陽平だったが、彼は甘いものは一つで十分だと言って葵に譲ってくれた。だからこうして冬耶と並んで楽しむことが出来る。
「宮岡先生、仕事がお休みの日はいっつも美味しいお菓子探してお散歩してるんだって」
「そうなんだ?相当甘党だな。じゃあ譲二さんのお店も知ってた?」
「うん、行ったことあるって」
遥の父、譲二が経営する店は、何度かメディアにも取り上げられたことがある。スイーツに目が無い様子の宮岡は当然チェック済みだったらしい。
「夏休みバイトしたらね、宮岡先生に来てもらって、サービスする約束したんだよ」
少し先の話にはなってしまうが、宮岡は葵の提案をとても喜んでくれた。コーヒーとケーキぐらいでは宮岡への感謝には到底足りそうもないが、それでも彼は本当に嬉しそうに笑っていた。
「そっか。そしたらお兄ちゃんも、あーちゃんのバイト姿また見に行こっと」
「うん、お兄ちゃんにもいっぱいサービスするね」
働いている姿を見られるのは照れくさいが、冬耶だけではなく、大好きな人たち皆を誘ってもいいのかもしれない。
生徒会の先輩たちの飲み物を用意するのは葵の役目。彼らの味の好みだってきちんと把握していた。櫻だけは紅茶の淹れ方になかなか合格点はくれないけれど、夏までには上達してみせたい。
聖と爽は甘くてほろ苦いカフェラテをよく飲んでいる。ブラックが飲めないわけじゃない、と言い張っていたことを思い出して思わず笑みが零れそうになった。
学園での出来事を振り返ると、彼らにも無性に会いたくなってしまう。たった三日。それなのに、同じ寮で生活している彼らもまた、葵にとっては長い時間を共に過ごす大切な存在になっていた。
「今日もお兄ちゃんの部屋でおしゃべりする?」
空になった瓶を片付けた冬耶がキッチンから戻るなり、これからの予定を確認してきた。冬耶と話したいことはまだまだ残っているものの、葵の帰りを待っている二人のことを思うと次の機会にするしかない。
「そっか、昨日はお兄ちゃんがあーちゃんのこと独り占めしちゃったからな」
葵が誘いを断っても、冬耶は嫌な顔一つせず笑ってくれる。おやすみの挨拶として額にそっとキスを贈ってもくれた。冬耶からのキスは葵をただひたすらに温かな気持ちにさせてくれるもの。でも、唇を重ねたことは一度もない。
七瀬が言っていた通り、特別に好きな人としかしない行為だというのならば、冬耶にはそんな存在がいるのかもしれない。葵の知らない、誰か。それが少し寂しかった。
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