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act.7昏迷ノスタルジア<97>
「俺がしたくてしてるっちゅーのは、西名さんも分かっとる。やっとあの子の為になることが出来て、ほんまに嬉しいしな」
葵のことを思い浮かべただけで、幸樹の表情はいつもよりずっと優しいものになる。彼なりに葵を大切にする方法を探し、悩んでいるのだろう。
だから、幸樹が一ノ瀬を殴ったと知ってもあの葵が喜ぶわけがないと、そんな予想を口に出すのは憚られた。
「もう二度とこっちには戻ってこさせないから。奈央ちゃんも安心してな」
“こっち”という言葉が示すのは、単に学園という意味ではない気がする。
「一ノ瀬先生は、どうなるの?」
「それは奈央ちゃんが知らなくてもええこと」
これ以上聞かないで欲しい、そういうことなのだろう。本当にそれでいいのか。結局は悩んだ末に口を噤むことを選んでしまう。冬耶を非難する資格はない。幸樹の意思を尊重するフリをして、奈央もまた彼を傷つけているのだ。
「そういや若葉、今日登校したんやって?」
幸樹は奈央の気を逸らすように、別の話題を振ってくる。
「うん、教室にも来たよ。ヘッドホンしたまま、ずっとゲームしてたけど」
昼過ぎのたった一コマ分の授業だけであったが、突然姿を現した若葉に教室中がざわめいた。だが、彼の機嫌を損ねれば大惨事を引き起こすことは誰もが理解している。クラスメイトも、そして教員さえも、若葉の存在に一切触れることなく粛々と授業を進める様は、異様でしかなかった。
ゲームがひと段落したのか、それとも他に用事が出来たのか。授業が終わりかけるという時間になって、若葉は席を立ち教室を出て行った。その瞬間誰もが安堵の溜め息を零したが、奈央だけは違った。
最後に教室内を振り返った若葉と目が合ったのだ。偶然ではない。間違いなく、奈央を見ていた。意味ありげにニヤリと笑った口元。その表情は奈央に不吉な予感を与えた。
「二年のフロアにも顔出したみたいなんだ。葵くんが登校するの、待ってるのかな」
「かもな。んー、藤沢ちゃんのこと相当気に入ったぽいからなぁ。どうしたもんか」
幸樹にもまだいい対処法が浮かんでいないようだ。危険な度合いでいえば、若葉は一ノ瀬の比ではない。彼にターゲットにされた生徒がどんな目に遭ったか、嫌というほど知っている。
「徹さんが唯一の望みやったけど、あの人も藤沢ちゃんに手出しとったからな」
「徹さん?」
「若葉の側近。スーツのでかい奴、見かけたことない?」
幸樹に言われ、奈央はその人物に思い当たった。若葉がいつも移動に使う黒塗りのミニバン。その運転手として仕えている男がそうなのだろう。
「あの二人同時に相手にすんのは流石にきついわ」
徹と呼ばれた男は若葉よりは身長が低いものの、スーツの下の体つきが一般人のそれでないことぐらいはすぐに分かる。もしも葵が彼らに捕われてしまえば、いくら幸樹でも簡単に太刀打ちは出来ないのだろう。
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