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act.7昏迷ノスタルジア<101>
* * * * * *
家主の趣味でカーテンの掛かっていないガラス窓。そこから、目が眩むほどの夕陽が差し込んでくる。この時間になるとリビングスペースが真っ赤に染まる様は、初めこそ美しさに感動したものの、いい加減にうんざりする気持ちは否めない。近くを流れる川面に日差しが乱反射するせいで、読書すらままならないのだ。
遥はテーブルに広げたテキストをそのままに、淹れ直したばかりのコーヒーを片手に自室に引き上げる。リビングよりはマシな自室で、日が沈むのを待つのもまた、日常になりつつあった。
前の住人が置いて行った古ぼけた椅子に腰掛け、勉強に集中するため団子にくくった髪を解くと、休息を求めていた体の力が抜けていく。
異国に来てもうすぐ二ヶ月が経つ。幼い頃から父親に連れられ、度々フランスを訪れていたおかげで、生活習慣や食事にはすぐ馴染めたはずだ。それでも、長年住んだ国を離れるということはそれなりに神経がすり減るのだと思い知らされる。
特にここ最近は、葵の身に降りかかったことが心労になっている自覚があった。
『遥さん、見て!ちゃんと膨らんできた!』
無意識に操作した携帯に映し出すのは、いつかの葵との思い出。一緒に作ったシュー生地が膨らむ様を、オーブンに張り付いて観察する葵の姿が可愛くて、思わず録画していたものだ。
『あ、また撮ってる』
振り返った葵がこちらの携帯に気付き、すぐに照れた顔をしてそっぽを向く、その仕草すら記録に残しておきたいと思わせる。
このあと、録画したままの携帯をカウンターに置き、キッチンの奥に逃げてしまった葵を捕まえ、抱き締め、キスをした。レンズは天井だけを映していたけれど、うっすらと聞こえる音声で、記憶が蘇ってくる。
父親のせいで葵はカメラを向けられるのが苦手だった。だからこんな風に葵と戯れることができるようになったのは、ここ二、三年の話だ。いつかこうして離れることを想定していたから、何でもない日常の一コマを極力記録していたのだけれど、寂しさを癒すにはちっとも足りそうにない。
更に少しだけ日付を遡って映し出したのは、葵を生徒会へ招いた頃の映像。一年生の証である緑色のネクタイを締め、少し緊張した面持ちでカメラに向かう葵。手にはスピーチ用の原稿が握られていた。
自分達が学園に在籍しているうちに葵を生徒会に引き入れる。それは中等部の頃から冬耶と共に密かに考えていた策だった。そのためには冬耶を学園のトップに君臨させるだけでは足りない。遥自身も生徒会役員の道を選び、環境を整えることに全力を尽くした。
綾瀬七瀬という中等部からの友人に加え、高校入学と同時に都古とも親しくなった。葵は確実に成長していたが、学園に馴染めているとは到底言えなかった。
遥たちが葵を可愛がる姿を堂々と見せつけることで、表立って葵を軽視したり、傷つけたりするような言動をする生徒や教員は圧倒的に減ってはくれた。葵自身の努力もあり、成績は上位に食い込めるようにもなった。
でも二人が卒業してしまえば、残りの二年間、葵が再び苦しい立場に置かれることは簡単に予想できた。
だから多少荒っぽい方法とはいえ、一年生の葵を特例という形で生徒会の中に招いたのだ。
この映像は、そのために全校生徒の前で行ったスピーチの練習風景だ。
依枯贔屓だと周囲から叩かれることを恐れた葵ははじめ乗り気ではなかったけれど、説得を繰り返したおかげで意思を固めてくれた。
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