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act.7昏迷ノスタルジア<104>
* * * * * *
昨夜の出来事をなんと表現すればよいのか葵には分からなかった。二人の腕の中で目覚めた時に感じたのはたしかな安心感だったけれど、それと同時にどうしようもなく気恥ずかしくて堪らなかった。
でも布団に潜り込む前に捕まり、二人の手によって着替えさせられたし、おまけとばかりにそれぞれからキスもされた。
「じゃあな、ちゃんと飯食えよ」
玄関先で葵の頭を撫で出掛けてしまう京介はいつも通りで、葵の体を支えてくれる都古も涼しい顔をしている。昨夜のことが頭から離れないのは葵だけ、のようだ。
頭を切り替えるために思いつく方法は、勉強しかなかった。
「お兄ちゃん。ちょっと分からない問題があってね、教えてほしいんだけど……」
朝食後にソファでのんびりとコーヒーを啜っている冬耶の隣に並べば、彼は少し驚いた顔をした。でも一応は葵が差し出した数学のテキストに目を通してくれる。
「あーこれね。うーん」
冬耶は困り顔をするが、決して問題が分からないわけではない。感覚で理解してしまえる天才肌の冬耶の教え方は独特で、他人には難しいのだ。冬耶はそれを自覚しているから、葵への伝え方を戸惑っているのだろう。
「ごめんなさい」
「いや、お兄ちゃんが悪いからそんな顔しないで。でもどうしたの?お兄ちゃんに聞いてくるなんて珍しい」
彼の言う通り、こうして冬耶を困らせてしまうことをよく知っているから、葵が教えを乞うのはいつも遥や綾瀬だった。だから勉強に逃げ込むというのすら口実で、ただ冬耶の傍に寄るきっかけが欲しかったのだと自覚する。
「お兄ちゃんと、お喋りしたかったのかも」
素直に口にすれば、冬耶はようやく笑顔を見せ、そして葵の肩を抱き寄せてくれる。
冬耶には昨夜のように肌に触れられたことは一度もない。だから苦しくなるほど心臓が脈打つことはない。あるのはただじんわりと包む込むような温かさ。
でも昨日ふと頭をよぎったことがまた蘇る。冬耶は特別に好きな人となら、昨夜のような触れ合いもしているのだろうか。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?なーに?」
「お兄ちゃんは、いる?特別な人」
葵の唐突な質問に反応したのは、冬耶だけでなくリビングの窓辺で寝転がっていた都古だった。葵の勉強の邪魔をせず大人しくしていた彼が肩を揺らし、そして静かにこちらに視線を向けてくる。
「特別な人?そりゃ沢山いるよ。家族にはるちゃん、みや君、それから……」
冬耶は思いつく限りの人を羅列してくれる。でも葵の想像していた答えではなかった。葵だって、冬耶が並べた人のことは皆特別な存在だ。でも七瀬の教えてくれた“特別な好き”はそうではないはず。
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