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act.7昏迷ノスタルジア<122>

それから遥はよく家に遊びに来てくれるようになった。毎回彼が与えてくれる甘いお菓子も楽しみだったけれど、葵は段々と遥がやってくること自体待ち遠しくなっていた。 葵が遥と会話らしい言葉が交わせるようになってからは、この家のキッチンで作りたてのお菓子を食べさせてくれる機会も増えた。はじめは見る専門だったけれど、遥は材料を計ったり、混ぜたりする簡単な役目を葵にも与え始めてくれた。 “ありがとう、助かったよ” 葵が手伝いをきちんとこなせるたびに、そんな風に遥が褒めてくれるのが何より嬉しかった。迷惑をかけてばかりの自分でも誰かの役に立てている。それが葵にとっては衝撃でもあった。 今思えばあれは遥の優しさだったのだと分かる。それでも、当時の葵には確かに希望になっていた。 「遥さんにも、渡したいな」 口にした瞬間、彼への想いが溢れてくる。 会いたい。褒めてほしい。頭を撫でて、そして抱き締めてほしい。鼻の奥がツンとして、涙が込み上げてくるのが分かる。 「あーちゃん、ちょっとストップ、待って待って」 俯いた葵を見て状況を察した冬耶が慌てた様子で飛んできた。そして葵の頭を抱き寄せ、自分のシャツに押し付けてくれる。 クッキーの生地にまみれたままの手では目元を拭えないし、生地に涙を落とすわけにもいかない葵のための応急処置だ。 「寂しいよな、よしよし」 そのまま髪や背中を撫でてくれる冬耶のおかげで、そう時間も掛からずに涙は引っ込んでくれる。けれど一度湧き上がった寂しさも切なさも、そう簡単に消えてはくれなかった。 花や星の形にくりぬいた生地をオーブンに入れ、焼きあがるのを待つ間も、頭のどこかではずっと遥との思い出を振り返ってしまう。 「……アオ」 ジッとオーブンを見つめていると、葵を支えるように隣に立つ都古が顔を覗き込んできた。 「俺じゃ、だめ?」 遥を恋しがる葵に向けて問い掛けているのだと分かる。でも葵にはふさわしい回答が何かが分からなかった。 遥は遥。都古は都古。どちらも大切で、代わりのいない唯一無二の存在だ。彼らだけではない。この家の家族も、明日やってくる皆も全員そう。葵にとっては全て大事な人たち。 けれど、都古は葵以外何もいらないという。葵だけが好きだと。だから都古も同じことを葵に求めたいのかもしれない。都古の希望はなんだって叶えてやりたいけれど、こればかりは難しい。 「ごめん、忘れて」 葵が困ったことを察して、都古は己の発言ごと取り下げてしまった。視線を葵から逸らしたその横顔が悲しげで、それがまた葵の胸を痛くさせるのだった。

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