1030 / 1601
act.7昏迷ノスタルジア<141>
「俺たちが一番こわいのは、あーちゃんが自ら馨さんを選ぶことなんだ」
葵にとっては、分かりやすく愛情を注いでくれた存在ではあった。だからこそ置き去りにされて深く傷付いたし、姿を見つけただけでがむしゃらに追いかけてしまうほど恋しがってもいる。
「あーちゃんにとって今が幸せだって、思わせてあげてほしい。ずっとこの暮らしを続けたいって」
「……それだけ、ですか?」
「簡単なことじゃない。俺たちが十年掛かっても成し遂げられてないことだよ?」
京介は冬耶のその言葉で悔しげに唇を噛んでいたが、反論してはこなかった。
「あーちゃんはね、エレナさんのことも大好きなんだ。お星様になりたいってよく泣いてたよ。会いたかったんだろうね。だから難しいんだよ。あの子をこの世に留めておくのすらな」
爽が望む回答でなかったことは理解している。けれど、彼らに協力してほしいのは、葵に今の生活での存在意義を見出させること。葵から馨の手をとる選択肢だけは排除したい。
それから学内に再び馨が乗り込んでくる可能性や、葵のトラウマを抉るようなものが他にあるかの確認など、それぞれから冬耶への質問が投げかけられた。
一つ一つに答えているうちに、陽平からの連絡が入る。
一教科分の問題数はそれほど多くない。だから葵はもうすぐ全てを解き終わってしまいそうなのだという。都古と七瀬が苦しそうに頭を抱えているという情報も添えられていて、冬耶を笑わせる。
「とりあえず、今日はこの辺で。皆いつも通りの顔に戻しといて」
リビングに漂い続ける仄暗い雰囲気を払うよう、冬耶は大きく伸びをし、明るく声を掛ける。
「月曜か、それとも試験からか。どっちにしても、そろそろあーちゃんを登校させる」
学費の一件以降、馨は学内に足を踏み入れることを禁じられている。強硬手段を取るとも限らないが、妙な騒ぎを起こしたくはないという藤沢家側の言葉を今は信じるしかない。これ以上葵を欠席させ続けることも限界だ。
今夜葵とも話をする。ベッドの下に隠し続けていたあの制服、そしてその贈り主について。
冬耶の言いつけ通り、解答用紙を持って現れた葵を全員が笑顔で出迎えてくれた。少し無理のある表情の者もいたけれど、採点する先輩の手元を見ながら、一喜一憂する葵を見ていつしか自然に場の空気が和み始める。
「あーちゃん、休憩しなくていいの?」
「うん、大丈夫」
間違えた箇所を早速教えてもらおうとする葵に声を掛ければ、しっかりとした頷きが返ってきた。一日でも早く学園での日常を取り戻そうと、葵も必死なのだ。
もう十分すぎるほどたくましく、強くなってくれた。そう思う。だからどうかこれ以上、この子に試練など与えないでほしい。
冬耶は切実な願いをただ、己の胸の内で吐き出した。
ともだちにシェアしよう!