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act.7昏迷ノスタルジア<159>

「デート中に葵ちゃんがパニックになった話はしたよね」 「あぁ」 櫻は不意に連休中の出来事を口にした。櫻が葵のトラウマを抉ってしまい泣かせたという話と、そして櫻の目を盗んで接触した誰かに傷つけられた話。そのどちらも大まかにだが聞いている。 「実はさ、その時に言われたんだ。“パパ”って」 「櫻に対して、か?」 「そう、ずっとパパのこと呼んでたって。で、“やっぱりこんなお人形、いらないの?”とも聞かれた。あの時は意味が分からなかったけど、やっと理解できた」 やはり葵は父親の存在を求めているらしい。それもかなり強く。当時の状況を考えれば、馨の人形として振る舞うことだけが葵に与えられた唯一の存在意義だったのだろう。それさえも要らないと拒まれて砕かれた心は、十年の月日を経ても癒されていない。 「葵に今の暮らしを続けたいと思わせることは、本当に難しいことなのかもしれないな」 葵なりに幸せを見出しているとは思う。けれど、馨と天秤にかけた時にまだ決定的ではないと冬耶は予測しているようだ。 「葵ちゃんが本心から“パパと暮らしたくない”って意思表示が出来ないと意味がないってことだよね」 「それが出来ればもう思い通りになる“人形”でもなくなるしな。父親側の興味が失せる可能性に賭けたいのかもしれない」 だから葵の居場所を増やし、愛する人を増やす。こちら側に葵にとっての宝物を増やし続けていく。“パパ”よりもずっと魅力的なものを。 冬耶が葵を生徒会に招き入れたことも、あからさまな危険人物以外、それこそ忍や櫻が葵に近付くことを認めた理由も、そんな思いからなのかもしれない。 今起きている事態を見越してそうした準備をし続けてきたと言われても、あの得体の知れない頭脳を持つ冬耶を思えば、不可思議なことではない。 「もう一度葵を教育し直そうとする可能性も十分有り得るがな」 「そう簡単には諦めないだろうね」 十年の時を経てようやく葵への距離を縮められたのだ。何がなんでも葵を手に入れなければ気が済まないことも察する。 でもこちらだって、みすみすくれてやる気はない。たとえ葵自身が馨を望もうとも、力づくで引き止めてみせる。家でもなんでも、忍の持てる物全てを利用する覚悟はとっくに出来ていた。 「北条葵。響きは悪くないだろう。字面もいい」 「それだけ聞くと結婚妄想しているやばい奴だからやめたほうがいいよ、忍」 櫻には咎められるが、葵を自分の懐に招く想像は楽しくて仕方がない。 「北条同士になるとやはり呼び方は考えないといけないな。やはり俺が改名するのが手っ取り早いか。どう思う?」 「好きしなよ、もう。心配して損した」 つれない友人は盛大な溜め息をついて窓のほうを向いてしまった。でもその口元は柔らかな曲線を描いていた。

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