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act.7昏迷ノスタルジア<166>
「奈央さんと出掛けた日?」
葵には大学のレポートを理由に立ち去ったけれど、本当は馨と会っていたのだとあの人は言っていた。だから確かめてみれば、冬耶は少しだけ驚いた顔をしたものの、肯定した。
「なんであーちゃんがそう思ったかは、また後で話すとして。今は馨さんの話をしようか」
冬耶の口振りではおそらく葵の情報源まで察している気がした。あの男が誰なのか、それを知るのは怖いが、いつまでも正体が分からぬままなのも嫌だ。でも今は冬耶の言う通り、馨と会い、何を話したのかを教えてもらうのが先だ。
馨が日本を離れてから、この家には不定期で一方的に小切手だけが送られてきていたらしい。でもそれを一度も換金したことはなかったのだという。
「そう、なの?」
「俺も直近の話しか知らなかったけど、そうなんだって。父さんの稼ぎだけで十分あーちゃんのこと育てられるから、もらう必要なんてないって言ってた」
小切手の話は、あの人からも聞かされていた。控えの現物も見せられた。“金目的”で葵を引き取った証拠として突きつけられ、そしてそれがショックで忍の家に逃げ込んだのだ。
葵が西名家に引き取られた経緯は詳しく知らなかったが、藤沢家が養育費を西名家に払うこと自体何も不自然ではない。落ち着いた頭で考えれば納得いく話ではあった。でも、そもそも陽平は受け取らなかったという。
真実など葵には確かめようがないが、彼の真っ直ぐな性格を考えたら冬耶の言うことが本当なのだとそう思った。
「父さん、遊んでばっかりに見えるけど、俺たち三人余裕で育てられるぐらい仕事では優秀なんだよ」
冬耶は茶化すように笑ってみせるが、葵ももちろん理解している。陽平がどれほど素敵な人物か。血の繋がりはないけれど、葵にとって自慢の父親だ。
「で、このあいだも小切手が送られてきた。初めて馨さん側の連絡先も添えられていて、それで会うことになったんだ」
「じゃあ、それまでは一度も会ってなかったの?」
「うん、そうだよ」
もしかしたら何度も交流していたのかもしれない。そんな予感も外れたようだ。その面会に冬耶も同席したということらしい。
「そこで言われたんだ。あーちゃんを返してほしいって」
まるで葵が奪われたかのような言い回しだ。
馨がいらない、だから捨てるとそう言って置き去りにしたのに。何度呼んでも、手を伸ばしても、二度と振り返ってくれなかったというのに。
『葵ちゃん、しっかり息しな。大丈夫だから』
あの時の苦しさを思い出した葵に、今まで黙って見守っていた遥から声が掛かった。中性的な容姿とは裏腹に、少し低く、落ち着いた声のトーンは耳に届くだけで葵の心を穏やかにしてくれる。
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