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act.7昏迷ノスタルジア<169>
「なぁ、あーちゃん。俺たちはあーちゃんを“預かった”わけじゃないんだ。家族になったんだよ?」
葵を施設に迎えに行った日からずっと伝え続けているはずだ。
初めは声を出すこともままならなかった葵が、少しずつ冬耶を“お兄ちゃん”と呼ぶことに慣れ、そして陽平や紗耶香のことも親と呼べるようになった。京介とは同い年ということもあって、幼馴染の感は強いけれど。それでも、全員揃って家族なのだという意識は葵にもきちんと芽生えている。そう思っていた。
でもこうして馨が現れると、それがぐらつく。懸命に紡いできた絆が綻びを見せるのだ。
「馨さんはこの十年を、あーちゃんと過ごした俺たちの十年を金さえ出せば簡単に買えると、そう思ってるんだ。そんな真似されて、許せるわけがないだろ?」
『……冬耶』
つい感情を高ぶらせれば、遥が静かに口を挟んできた。彼を同席させたのは葵のためもあるが、冬耶をコントロールしてもらう意図もあった。葵の手前、名を呼ぶだけにとどめたようだが、それで十分だ。
葵の顔を覗き込めば、彼は何かを堪えるように唇を噛んでいた。それをやめさせるために指でそこをなぞれば少しずつ力は抜けていくものの、表情は晴れない。
「あーちゃん、今の気持ち、教えて?うまく言葉に出来なくてもいい。ただ思ったことを教えてほしい」
馨の話を聞いて葵が何か感じたのか。これからどうしたいか。それが何であれ、葵を馨と引き合わせるという選択肢は冬耶の中には存在しない。ただ葵の心を癒し、導くためには、本音を知る必要がある。
葵は戸惑った様子を見せたけれど、こちらを振り返り、ぎゅっと強く抱きついてきた。冬耶の温もりを求めるのは、不安の証。だから冬耶からも葵の体を抱き直してやる。
葵は深く呼吸をすると、一つ一つ慎重に言葉を紡ぎ始めた。
「パパが僕のこと、覚えてるって分かって。それがね、その、嬉しかった、と思う。もうとっくに忘れられてるって、思ってたから」
葵を絶望させ、そして立ち去った人物。彼を慕う心までを否定するつもりはない。ただ、馨と共に生きるよりも、この家での暮らしが葵にとって幸せなのだと確信してほしい。
「でも、きっと今の葵をパパは気に入らない。だからまたいらないって言われるかな、って」
葵が自分を名前で呼ぶ。それは精神が乱れていることを示していた。再び馨に捨てられる。想像だけでも葵にとっては辛いことなのだろう。
「どうしてそう思うの?」
葵の口で理由を言わせるのは酷だ。けれど、聞かないわけにはいかない。あとで葵を沢山甘やかしてやるよう、遥にお願いもしていた。だから今は少しだけ耐えてほしい。
薄い背をさすって先を促すと、葵は潤んだ目で冬耶を見上げてきた。
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