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act.7昏迷ノスタルジア<170>

「お兄ちゃんに、笑い方、教えてもらったから。もう人形じゃないって、教えてもらったから。だから、もう、戻れない。戻りたくない」 途切れ途切れ、懸命に紡がれた言葉。それは冬耶の心を揺さぶり、眩暈すら引き起こすほど強い衝撃を与えた。 葵にとって何が幸せかを常に考え、選択してきた十年だった。その全てに不安や迷いがなかったといえば嘘になる。でも葵は冬耶の想いにきちんと応えようとしてくれている。それが分かればもう十分だった。 思わず葵をきつく抱き締めてしまう。込み上げてくる愛しさを他にどう表現したらいいのか分からなかった。それに、泣きそうな顔を隠すには他に方法がない。 ただ静かにこちらを見守る遥は、冬耶の情けない表情を見て少し笑っていたが、それでも“よかった”と唇だけを動かして伝えてきた。 馨からのコンタクトを遮り、ある意味葵を騙し続けていたのだ。最悪、西名家側が葵に拒絶される可能性だって考えていた。でも葵は冬耶から離れたくないと言いたげに、しっかりとしがみついてくる。 「……あの、だけどね。パパに会いたいとは、思う。ごめんなさい」 「うん、いいんだよ。大丈夫」 遠慮がちに付け足された気持ちを叱るわけなどない。むしろ葵が無理やり本音を押し隠すよりも、余程冬耶を安心させる。 けれど、馨に思い焦がれる葵を放置するのは危険だ。馨の身分も所在も先ほど明かしてしまった。向こうから接触されるだけでなく、葵が自ら藤沢グループのオフィスに向かってしまう、なんて事態も有り得る。 「あーちゃんを脅したいわけじゃない。会いたい気持ちを否定するつもりもない。でもね、もしも馨さんに会ったらどうなるか、それは伝えておかないといけないから」 その先を聞くのが怖いのか、冬耶のシャツを掴む葵の手に力が込められる。でも拒みはしなかった。本当に強くなったと感じる。葵にこんな強さを求めること自体、申し訳なくて仕方ないのだけれど。 「あーちゃんは、きっともうここに戻れない。誰にも会えなくなる」 「……どういうこと?誰にも、って?」 「今あーちゃんが思い浮かべることのできる、全員と。そう、お兄ちゃんにも、遥にももちろんな」 葵の視線が確かめるように冬耶や、そして遥に向いたのがわかり、それを肯定してやると、彼の目が丸く見開かれた。やはり全く思いもしなかったことだったようだ。 馨の意向を正確に伝え聞いたわけではないが、あの人が葵と直接接触する機会を得たら、みすみす手放すわけもない。そして、葵を今までの環境からきっちりと隔離するだろう。 宮岡からは、馨が葵を迎え入れるために大型のケージを用意しようとしている、なんて話も聞いていた。情報源である穂高曰く、冗談とも本気とも分からぬ口ぶりだったようだが、あの写真集を見れば馨がどんな欲望を抱いているかなんて簡単に想像できる。人間らしい生活を与える気もないはずだ。 もちろんそんなおぞましい話を葵に聞かせる気はないが、危険だということは理解させたい。

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