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act.7昏迷ノスタルジア<185>

「パパに、褒められたかった。でも、それをママは嫌がってて。どうしたらいいか、分からなかった」 馨にキスをされると、あとでエレナは必ず葵の頬を打ったり、体をつねってきた。そうして怪我をすると、今度は馨が怒る。葵は傷一つない綺麗なお人形でいなくてはいけないのに、と。 ずっと混乱の中で過ごしていた。何が正解なのか分からないまま、何を選んでも叱られる毎日。 二人からの厳しい躾。その恐怖を思い起こして、自然と宮岡のシャツにしがみついてしまう。宮岡はそれを咎めるどころか、葵の体を優しく抱き締め直してくれる。 その腕の温かさは葵にヒントを与えた。あの時もこうして誰かが葵を慰めてくれた気がするのだ。 葵に優しかったのは隣人の一家だけだったはず。でも葵が泣いた時にいつでもその涙を拭い、あやしてくれたのは彼らではない。京介や冬耶よりはずっと大きくて、けれど陽平ほど大人の手ではなかったと思うのだ。 それ以上記憶を探ろうとすると、頭の奥がズキズキと痛み始める。だから葵は一旦意識を別のものに逸らした。 「そういえば、パパは京ちゃんたちと遊ぶのもダメだって言ってました」 引っ越したことをきっかけに始まった西名家との交流。エレナにとって葵は目障りだったようで、よく家を追い出されていた。その度に隣家の京介や冬耶に相手をしてもらっていたのだが、それもまた馨を怒らせていたことを思い出した。 「お父さんはどうしてダメなんて言ったんだろう?」 宮岡に問われ、葵は少しだけ考え込んだ。 二人と家の前で遊んでいる時に馨が帰ってきたことがあった。その時はすぐに馨に抱き上げられ、日焼けするからと家に連れ戻された。でも彼が怒った理由はそれだけではない 「葵にお友達は必要ない。パパだけでいいからって」 確かにそう言われた。 幼稚舎に通い始めた時もそうだ。赤いリボンのついた制服を纏う姿は可愛らしいと褒めてくれたが、登園すること自体には反対している様子だったと思う。実際、仕事の合間に訪れ、無理やり早退させられたことも記憶に残っていた。 「ママに会いたいって言った時も、怒られてしまいました」 亡くなったエレナを恋しがり、泣くことしか出来なかった葵に、馨は同じ台詞で叱ってきた。 「葵に必要なのは、パパだけ」 だから泣き止みなさいと、何度も言い聞かされた。目を瞑るとその時の馨の表情も、声も蘇ってくる。 やはり馨は昔からそうだったのだ。母親でさえ、葵が求めるのを嫌がっていた。その記憶が自分の心の奥底にきちんと残っていたから、馨を選べば全てを失うという冬耶の話に納得が出来たのだとわかった。 「葵くんはどう?お父さんが言うことは正しいと思いますか?」 「……分からないです」 自分にはもう沢山の大切な存在が出来てしまった。それが不必要だなんて思うわけもない。でも馨との二択を迫られた時、やはり自分が何を選ぶべきなのか分からないのが本音だ。

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