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act.7昏迷ノスタルジア<186>
「全部必要、というのは欲張りなんでしょうか?」
葵にとって馨は畏怖の対象ではあるけれど、それでも大好きな父親に変わりはない。叶うことならもう一度、あの腕で抱き締めてほしいと思う。でも馨以外の全てを手放すことも恐ろしい。
もう何も失いたくなどない。
「そんなことはありません。葵くんが何を望むかは自由ですから」
宮岡を見上げると、彼の表情は逆光になっていて少し見えづらかったが、それでも穏やかな笑顔であることは分かる。髪を撫でてくる手も、迷い続ける葵の心を包みこむように優しい。
「ねぇ葵くん。もう少しだけ、あのお家のことを教えてくれませんか?」
「お家のこと、ですか?」
「そう、葵くんはどんな部屋で過ごしていたのか、とか」
拒む理由はない。葵は頷き、もう一度目を瞑る。その体を支えるように、宮岡も葵を抱き寄せてくれる。
葵の部屋は二階にあった。馨の部屋の隣だったはず。一つだけ出窓はあったけれど、当時の葵には届かない高さで自由に開閉が出来なかった。
「窓の傍にベッドがありました。クッションが沢山あって、いつもそのどれかを抱えて寝てた気がします」
「そう、葵くんはいつも一人で寝ていたんだね?」
「パパのベッドで寝ることも、ありました」
馨の手でパジャマに着替えさせられ、そして葵のベッドよりも広い場所に連れて行かれた記憶もうっすらと蘇る。いい子だと囁かれ、額や頬にキスをされながらひたすら甘やかされる時間。その時はいつも馨の機嫌が良かったから、葵は安心して眠れていた。
けれど、馨と眠った翌日は、エレナが特に葵に厳しかった。だからいつしか馨の手で寝室に導かれること自体が怖くなってしまったことも思い出す。
「……どうしてママ、あんなに怒ったんだろう」
あの時感じた疑問を十年ぶりに口に出してみると、宮岡が眉をひそめ、そして“どうしてだろうね”と共に不思議がってくれた。
そのやりとりで、葵はまた頭の奥が痛み出す。
“どうして、でしょうね。私にも分かりかねます”
葵の疑問に答えられないことを申し訳なく思う、困った声音。自分は何を尋ねたのか。そして声の主は誰なのか。
“さぁ、もうお休みの時間ですよ。お坊ちゃま”
馨が居ない時は一人で眠っていたと思っていたけれど、声の主は葵の体に静かに布団をかけ直してくれる。でも顔が見えない。窓から月明かりが差し込んでいるのに、不自然なほど影がかかっているのだ。そこだけぽかりと暗闇が広がっている。
以前宮岡とのカウンセリングで渡された金平糖のことも思い出す。あの時も封じ込めていたはずの記憶がぐらついて、少しだけ溢れてきたのだ。
「先生、思い出したい」
「何をですか?」
「金平糖、くれた人。いつも僕を寝かしつけてくれた人。思い出したい」
どうしてか、ただそれを訴えるだけで、今まで堪えられていた涙が溢れてくる。感じたことのないほど狂おしい恋しさだった。
「葵くん、ありがとう。うん、思い出そうね」
宮岡がなぜ葵に礼を言うのか。それすらも疑問に思えないほど、ただ込み上げてくる感情に溺れていた。
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