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act.7昏迷ノスタルジア<198>

* * * * * * 葵は今夜も冬耶の部屋で眠りたいと言っていた。明日から寮生活に戻るのだから、最後に兄との時間を過ごしたいという気持ちは分かる。でも葵と二人きりにさえなれない今の環境が、そしてこれからの生活が、京介にはあまりにも耐えがたかった。 ドライヤーの風音が止み、葵と冬耶が繰り広げる楽しげな会話がより鮮明に聞こえる。しばらくして脱衣所を出てきた彼らは、京介が廊下に座り込んでいることに気が付き、揃って驚いた顔をした。 「葵、話そ」 都古の邪魔を受けずに葵を攫えるのは今しかない。兄の前で葵を欲しがるなんて真似は嫌だったけれど、こればかりは仕方ない。葵が嬉しそうに飛びついてくるのが救いだ。 「あとで部屋まで連れて帰るから」 迎えはいらないという意味で冬耶にそう告げ、京介は葵を父親の書斎に連れ込んだ。防音かつ鍵まで付いているこの部屋は京介にとっては都合のいい場所だった。 映画を楽しむために壁一面に張られたスクリーン。それに向きあう形で置かれたソファへ葵を抱えたまま座ると、甘えるように腕が回ってきた。風呂上がりで火照った体。その温もりを感じるだけで、やるせなく荒んだ心が落ち着きを取り戻していく。 「僕もね、京ちゃんと話したいって思ってた。だから良かった」 葵も自分との時間を求めていた。それを知って安堵もする。 「なに話したかった?」 昨夜だけでなく、日中も葵は何度か泣いたようだ。わずかに腫れているように見える目元に触れて問うと、葵は少し迷った素振りを見せた。けれど、言葉を選びながら尋ねてくる。 「もしかしたら、違うのかもしれないけど。前に階段の下で見つけたクマのぬいぐるみ。あれ、本当はパパがくれたんじゃないかって思って。だから京ちゃん、あんなに怒ったのかなって」 あの時のことを葵はやはり引きずっていたらしい。何も知らなかった葵に罪などない。頭では分かっていたのに感情を抑えきれず、葵相手に声を荒げてしまった。葵なりにその理由をずっと探っていたのかもしれない。 「あぁ。……怒鳴って悪かった」 もう葵に送り主を隠す意味はない。謝罪を口にすれば、葵は首を横に振って笑ってくれる。 「京ちゃんはパパが嫌い?」 「好きになる要素、どこにあんだよ」 葵に異常な愛情を注いで気まぐれに弄び、そして深く傷付けた。今もなお、葵の平穏を脅かす存在だ。エレナに並んで憎い。もし目の前に現れたら、殴るだけでは済まないだろうと思う。 でも一番に被害を被っているはずの葵は、やはり馨を恨んでいる気配がない。京介の言葉に悲しげに眉を下げ、そしてトンと体重を預けてきた。

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