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act.7昏迷ノスタルジア<208>

「冬耶くん?」 「あぁ、本当に今はちょっとマズい。スイッチ入っちゃいそう」 顔を寄せた上で、もう一度呼んでくるなんて。愛しいはずの存在が、今は少しだけ恨めしい。 どれだけ肌が触れたとて葵の前では封じ込められていた感情が、簡単に爆発してしまいそうだ。 冬耶はあくまで葵に対しては兄で居続けるという確固たる意志があるだけで、聖人などではない。人並みに欲はある。葵に触れたい気持ちだって募りに募っている。だから必死に築き上げてきたガードをこんな形で打ち破られると困るのだ。 「あーちゃん、いつもみたいに“お兄ちゃん”って呼んで」 「……うん、お兄ちゃん」 戸惑ったニュアンスではあるが、葵の声で兄だと自覚させられると、溶け出しそうだった理性が戻ってくる感覚がする。 「懐かしくなって、たまに呼びたいなって思ったんだけど。ダメ?」 嬉しい申し出ではある。でも自分でも名前一つでここまで揺さぶられるとは思いもしなかった。 「ダメではないよ、もちろん。でもちょっと恥ずかしいから、不意打ちはなしにしてほしいな」 「じゃあ、今から呼んでいい?って確認したら大丈夫?」 明らかに不自然な提案ではあるが、素直な葵は特に疑問も持たず、冬耶が照れない方法を探ろうとしてくれる。 「うん。そうしてくれると助かる。呼んでくれるのはすごく嬉しいから」 鼓動が落ち着いていくのを感じながら、冬耶は葵を安心させる言葉を紡ぐ。けれど、葵はぎゅっと音が鳴るぐらいしがみつきながら、今から呼びたい、とねだってくるのだ。 葵からすれば、幼い頃の思い出に浸りたいだけなのだろう。この子に冬耶をからかうような目的があるわけがない。 「いいよ、あーちゃん。一回だけね」 今連呼されたら心臓が持ちそうにない。呼吸を落ち着け、葵と視線を絡ませる。 「おやすみ、冬耶くん」 甘い蜂蜜色をした瞳。耳に心地よく響く声音。そして蕩けるような笑顔。兄の目線でみればなんてことはないはずの挨拶なのに、狂おしいほど煽られる。 でも冬耶にだって、自分の理性が鉄壁だと言い張ってきたプライドがあった。 「おやすみ、あーちゃん」 笑顔で挨拶を返し、おまけに頬にキスも贈ってやる。いつも通りの振る舞いに、葵は安堵して目を瞑った。 元々眠気を堪えていたようで、葵が穏やかな寝息をつき始めるのにはそう時間が掛からなかった。タオルケットと羽毛布団を肩まで掛けてやりながら、冬耶はようやく深く息を吐き出した。 「参ったな、これ。どうしよう」 この調子では、葵はきっとまた冬耶を名前で呼びたがるだろう。もう心構えは出来たから今後呼ばれたとて、理性を失う危険性はないが、それでも苦行だとは思う。 「反則だよ。一生呼ばれない覚悟してたんだから」 耳にまだ葵の声が残っている。どこか夢見心地の気分でもあった。 「葵、おやすみ」 冬耶もお返しに、昔呼んでいた風に呼びかける。すっかり眠りに落ちた葵には届くはずもない。 起きている時に呼んだら葵はどんな反応をするだろう。冬耶のように照れるのか。それとも、何でもない顔で受け入れるのか。 葵の幸せな未来を願いながらも、そのすぐ傍に寄り添う相手は自分ではないと考えていた。兄として支え続けるつもりだったからだ。 でももしも葵が望むならば。今夜は、そんな想像をしてしまうダメな兄を許してほしい。 「葵」 冬耶はもう一度愛しい名前を口にすると、その体をより一層強く腕の中に閉じ込めたのだった。

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