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act.7昏迷ノスタルジア<212>
一ノ瀬の件に未里が関与している、という幸樹の予測はやはり外れてはいなそうだ。
彼一人を尋問し、真実を吐き出させることは容易いとは思う。ではなぜ幸樹がこんな回りくどいやり方をしたのか。
それは未里が今、若葉の支配下にあるからだ。若葉が自分の搾取対象を幸樹に奪われた、と感じると厄介だ。彼を下手に煽るようなことは出来れば避けたい。
これからどう立ち回るかはともかく、黒幕の当たりが付けられ、牽制が出来ただけでも上出来だろう。
未里だけでなく、尾崎も幸樹への恨みを募らせたはずだ。何か仕掛けるならば、まず都古ではなく幸樹を狙いに来るだろう。それでいい。
尾崎の部屋を出て生徒会のフロアに戻ると、微かにピアノの音色が聞こえてきた。
自室にピアノがあるのも、こんな時間にそれを弾くのも、この学園では櫻しかいない。音楽の知識などまるでない幸樹でも、彼の演奏は美しいとはっきり感じる。こうして風に乗った音色に耳を傾ける時間は、ガラにもなく好きだった。
だから幸樹は一旦自室に入ると、そのままバルコニーへと足を運んだ。櫻の部屋はすぐ隣。彼は自室の窓を少し開けているようで、ピアノの音は廊下に居た時よりも鮮明に届いてきた。
手すりに身を預け、落ち着いた旋律に包まれながら目を瞑る。
明日から葵が帰ってくる。それは喜ばしいが、まだこの学園は安全とは言えない。幸樹にできる最大限の準備はしたものの、不安は燻っていた。
京介から断片的に伝え聞いていたおかげで、冬耶からの話は幸樹にとってそれほど驚く内容ではなかった。それでも改めて、湖での出来事の重さを思い知らされた。
あの夜から何度も繰り返し夢に見る。暗い水面に沈みかけた葵の体。自分は必死にそれを追いかけ掴もうとするが、いつも葵の姿を見失ってしまう。恐ろしい夢だ。
それに加え、一ノ瀬が記録した葵への暴行の記録も、幸樹の悪夢のレパートリーに仲間入りを果たした。あれよりも凄惨な光景はいくらでも目にしたことがあるはずなのに、やはり特別に想う相手となると別らしい。
「何やってるの」
深く息を吐き出していると、不意に声が掛かった。いつのまにかピアノの音は止まっている。声のほうを振り向けば、隣のバルコニーに櫻がいた。窓を閉める時に幸樹の存在に気が付いたのか。それとも単に夜風に当たりに出てきたのか。
「聴き入ってた」
「クラシックなんて興味ないくせに」
元々誰に対してもきつい口調ではある櫻だが、幸樹への当たりは一段と厳しい。こうして二人きりの場面で会話しようとすることすら珍しかった。
「さっちゃんのピアノは別よ。昔っから好き」
思わず以前の呼び名を口にすれば、櫻の眉がひそめられた。でもそういう表情を浮かべても、美麗な顔立ちなのは変わらない。
「演奏会、近いんやっけ?来週?」
「再来週」
櫻が呼び名に文句を言ってくる前に新たな話題を振ると、彼は不快な顔をそのままに回答してくれる。
「だからそれまでしばらく弾き続けると思う」
「全然ええよ、うるさいとか思ってないし」
むしろ彼のピアノを聴きながら眠ると、嫌な夢を見ることが少ない気さえする。一応は時間帯を考慮しているのか、夜は優しく穏やかな曲ばかりが聴こえてくるのもそれを後押ししてくれているのだと思う。
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