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act.7昏迷ノスタルジア<213>
「それならいい。ま、気遣うつもりもないけど」
隣室の幸樹にわざわざ告げてきた時点で後ろめたく思っているのは明らかなのだが、相変わらずの天邪鬼っぷりだ。
「……じゃ」
「おう、おやすみ」
やはり幸樹とは必要以上の会話を広げるつもりはないようだ。櫻はあっさりと部屋に引っ込んでしまう。それを少しだけ名残惜しいと感じるが、致し方ない。
幼い頃はそれなりに親しい友人関係だったはずなのだが、それをぶち壊したのは幸樹だ。
苗字が月島に変わる時、彼は相当苦しんだと思う。あの性格だ。決して表には出さぬよう努めていたけれど、何があったかを考えれば、その心中は容易く想像できる。
友人として支えてやれなかった幸樹に、彼が失望したのも無理はない。
櫻が宿命を受け入れ、月島家の長男として振る舞う生活を始めてから、もう随分経つ。ずっと気掛かりだったけれど、彼は葵と出会い、本当に幸せそうな笑顔を見せるようになった。それを知って、安心したのは紛れもない本心。
だからといって、櫻に葵を譲ることは出来ない。そんなことをすれば、プライドの高い櫻が怒り狂うのは読めているし、幸樹自身、簡単には打ち消せないほど葵の存在は日々大きくなっている。
「上手くいかんもんやな」
櫻のことだけではない。頭の片隅には口も態度も悪い友人、京介の顔が浮かぶ。そして幸樹には優しいだけでなく、辛辣なことを平気で言う奈央も。
どうして同じ子に惹かれてしまったのか。
やりきれない思いと共に、バラバラに見える自分達を葵が結びつけてくれているような不思議な感覚にも襲われる。
“携帯買ってもらいました!”
数時間前、笑顔の絵文字と共に突然送られてきたメッセージの冒頭。送り主は葵だった。葵を見失うことが二度とないよう、冬耶が登校に合わせて渡したのだろう。
おそらく葵は律儀にも皆に同じような連絡をしているのだと思う。そして返信をしていないのは幸樹だけな気もする。
昨日のお礼や、幸樹とまた生徒会活動で会えることが楽しみだと丁寧に綴られている。一度読んだままにしていたそのメッセージを眺め、幸樹は何と返すべきか頭を悩ませた。
ただの連絡手段のツールでこれほど迷ったことはないかもしれない。言葉を打ち込んでは消し、そしてまた似たようなものを打つ。
葵はもう眠っているだろうから、返信をせず、明日直接言葉をかけるという手もある。でも朝起きた時に幸樹からの連絡を見つけたら、あの子はきっと喜んでくれると思うのだ。
結局、幸樹が散々悩んだ末に送ったのたったの四文字だった。
“おかえり”
送信ボタンを押してから、その素っ気なさを反省する。絵文字の一つでも、いやせめて“!”マークでも付けてやるべきだったか。送信を取り消そうかすら悩むが、さすがにみっともない。
「……ダサ、中坊みたいやな」
好きな子にロクな言葉も掛けられない様に、思わず自嘲の笑いが溢れた。だが、今の自分が嫌いなわけではない。
進学するつもりのない幸樹にとっては、学生でいられる時間は残りわずかだ。それは幸樹が葵を愛することが出来るタイムリミットでもあった。
永遠を誓えない幸樹が、葵に触れ、愛を紡ぐ資格はないとは思う。けれど、こんな自分でも人並みに恋愛の真似事が出来ることは、随分な救いとなっているのだ。
昨日撮影した葵と、そして彼を囲む友人たちの写真を眺めながら、幸樹は静かな夜風の心地よさに身を委ねた。
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