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act.8月虹ワルツ<15>

「時間はこっちに任せるって言ってるけど、どうする?」 「俺はいつでも構わない」 櫻のぼやきなど相手にせず、奈央と忍は勝手に予定を立て始めてしまう。櫻ばかりが葵を恋しがっているみたいだ。 「今日はいいや。僕抜きでやって」 これは、恋心をひた隠す奈央や、余裕ぶる忍に対しての当てつけなわけではない。 放課後を体育祭の一件で潰したせいで、今日はまだまともにピアノに触れていないことが気掛かりだった。葵には会いたいが、どうせ今思い浮かぶ限りのメンバーが揃って騒々しくなるはず。今はそこに混ざる気分になれなかった。 「今からその調子で保つのか?演奏会は来週末だろう?」 「何か食べたほうがいいよ。また貧血になる」 櫻が理由を言わずとも、演奏会前の特徴を彼らはよく理解しているようだった。本番直前には寝食も忘れるほどの状態になる。 「平気。加減ぐらい、自分が一番分かってるから」 櫻が何を言っても聞かない性格であることもまた、友人たちは知っている。だから呆れたような目をしつつも、櫻が部屋に篭ることをそれ以上引き止めることはなかった。 明後日から始まる試験の対策も、いつもよりは不十分だ。葵のために時間を費やしたのが理由だが、だからと言って順位を落とすわけにはいかない。 月島家の人間は、一般の学業については重要視していない。音楽の才能だけを存分に伸ばしていけばそれで良しとされる。皆、月島家が運営する音楽科のある学校に進学し、それぞれ演奏の技術を高めていく。 だから櫻はそんな彼らの生き方を真っ向から否定することを選んだ。この学園に進学し続けたのもそうだ。音楽だけでなく、学業でも文句のつけようがない成績を取り続ける。両立できると実証してやっているのだ。 元々は葵と少しでも長い時間を過ごしたくて選んだ生徒会という立場も、親戚一同のプライドを大きく傷つけるのに役立った。 おまけに母の血を濃く引く櫻の容姿は月島家の中だけでなく、一般的に見ても飛び抜けて秀でている。舞台上でスポットライトに当たると、クォーターである櫻の華のある顔立ちがより際立つ。実力ではもちろんのこと、人の注目を集め、惹きつけるのにはこの顔が大いに役立っていると感じていた。 つまり、彼らが馬鹿の一つ覚えのように櫻を“淫売の子”と罵るのは、それ以外に難癖を付けようがないからだ。だからそう言われ続ける限り、櫻の勝ちである。 こんな人生の送り方は幸せとは言えないことは分かっていた。ムキになっている自分に対して、愚かだと思うこともある。それでもただ黙って彼らの言いなりになるのは御免だった。 艶やかなグランドピアノの前に腰を下ろし、静かに呼吸を整える。 いきなり演奏を始めるわけではなく、まず頭の中で自分の理想とする音の形をイメージする。演奏会で課せられた楽曲を単に弾きこなすことなら、すでに技術的には何の問題もない。大事なのは、理想とする表現にどう近づけるか、だ。本番まではひたすらその微調整の作業が続く。 だから余計なことを考えてはいけないというのに、友人と交わした会話の余韻が残っていた。 戸惑い、迷いながらも、両親の敷いたレールから逃れられない奈央に対し呆れたような物言いはしたけれど、結局櫻もこうしてピアノを弾き続ける人生を選択するしかない。その点では、奈央と何ら変わりはない。 櫻は一度深く息をつくと、今度こそ鍵盤に向き合った。

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