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act.8月虹ワルツ<20>

「櫻先輩、手貸してください」 食事を終えたのを見計らって、葵はそんな提案をしてみる。彼は訝しみながらも素直に右手を差し出してくれた。爪の先まで綺麗に整えられた作り物のような手。それを葵は自分の手でぎゅっと包み込んだ。 彼がこの手で奏でる音。その音色で幸せになる人がいるのだと教えたかった。でも言葉には出来ないから、こうしてその想いを温もりで伝えていく。 「手を繋ぐのもいいけどさ、キスもしたい」 空いた左手で葵の髪を撫でてきた櫻は、反応に困ることを告げてきた。手を繋いでいたつもりではなかったのだけれど、そう誤解されても無理はないだろう。 「自分から触ってその気にさせといて、嫌なんて言わせないよ」 言葉尻は強く思えるけれど、以前のように強引に距離を詰めてくることはない。葵の返答を待つようにブラウンの瞳がこちらを見つめる。 拒みたいわけではない。でもこんな時どんな反応をすればいいのか分からなかった。 「黙って目を瞑ればいい。簡単でしょ?」 戸惑いを見透かしたように、櫻は目元に触れて促してくる。その言葉通りにゆっくりと瞼を伏せれば、ほどなくして唇にそっと柔らかなものが当たる感触がした。色白の肌に映える赤みの強い櫻の唇を思い浮かべる。あれが自分に触れている、そう思っただけで心臓が痛いぐらい音を立て始めた。 好きな人に触れたくなるのが自然な感情。だからこうして唇を重ね合わせるキスをする。でも奈央は、特別に思い合っていないと意味のない行為だと言っていた。だから自分はしないのだと。 では、櫻はどう思っているのだろう。どうして葵とキスをしたがるのだろう。 「もっとしたい?」 互いの唇の感触を確かめ合うような優しいキスが途切れたのを見計らって瞼を開けば、色っぽい笑顔が待ち受けていた。思わず頷いてしまいそうになるが、予定していたよりも大分長くこの部屋に留まってしまった。櫻の邪魔になっていないかが気がかりだ。 「あの、練習しなくて大丈夫ですか?」 「たしかに。これ以上したら、葵ちゃんのこと帰せなくなっちゃうな」 名残惜しそうにしつつも、櫻はあっさりと葵から手を離した。葵を構い続けるほどの時間的な余裕は本当にないのかもしれない。 「ねぇ、また明日もきてよ」 櫻は玄関まで葵を見送りながら、そんな約束を取り付けてきた。こうして押しかけたことは櫻の迷惑ではなかったようだ。忍の勧めとはいえ、櫻の役に立てた気がして嬉しくもなる。 廊下に出ると、壁に凭れるようにして立つ忍の姿があった。櫻が顔を出した時には隠れてしまったというのに、こうして葵の帰りを待っていてくれたらしい。

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